東京神学社
東京神学社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 15:26 UTC 版)
1903年藤村操の自殺に対して「生きるとも何の甲斐あらんや」を『福音新報』に発表する。第15回夏期学校で『ブラウニングの宗教』と題して講演を行う。 1903年(明治36年)に明治学院の保守派の南長老宣教師(サミュエル・フルトンら)がクラークの『基督教神学概論』の使用に反対した。このためフルトンと袂を分かつことになり、植村は明治学院を辞職する。そして、甲府伝道を開始する。 1904年(明治37年)、甲府、静岡、豊橋、岡崎、名古屋、大垣、京都、福山の各地の伝道を行う。さらに、東京郊外の各地の伝道も行う。渡辺荘らの資金的協力により、海外ミッションから完全に独立した、東京神学社神学専門学校を設立した。自給独立案を大会に提出するが否決される。 1905年(明治38年)ジョン・ノックス400年記念会を神田青年会で開催し、『改革者及び神学者たるノックス』と題して講演を行う。再び、日本基督教会大会に提出した「独立自給案」が可決される。 東京神学社主催の宗教文学講演会で『ロベルト・ブラウニングの今世と来世』と題する講演を行う。第17回夏期学校で『勢力の宗教』と題して講演を行う。 1906年(明治39年)に一番町教会の会堂を富士見町に建築する。そして、富士見町教会を改称する。東京神学社宗教文学講演会を神田青年会で開催し、ケーベル、波多野精一と共に講演会を開く。そこで、『ワーズワース詩中の自然』と題する説教を行う。 1907年甲府、静岡、岡山で伝道を行う。万国基督教青年大会が東京都開催され、『学生伝道が高調せらるべき理想たる基督に似たる生涯』と題する講演を行う。そして、千葉、高知伝道を行う。この年、東京神学社が第一回卒業生を出す。 1908年東京市大挙伝道に尽力する。仙台、大阪、甲府、舞鶴で伝道をする。更に、京都、津山、岡山、千葉の伝道を応援する。
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