窯業(陶磁器・七宝・ガラス)との関わり
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「ゴットフリード・ワグネル」の記事における「窯業(陶磁器・七宝・ガラス)との関わり」の解説
ワグネルはドイツで学んだ化学の知識を基に日本の窯業に深く関わった。有田での窯業指導は上述の通りであり、伊万里焼(有田焼)の近代化に先鞭を付けた。 1870年から1881年まで続いた京都舎密局では、工業化学関連品の製造技術の普及も職務に含まれており、永樂和全の協力を得て陶磁器、七宝、ガラスの製法などを指導した。陶磁器については、薪と石炭の双方を燃料とし、火熱を2段階に利用して第1段で本焼成、第2段で素焼きのできる新式の陶器焼成窯を発明し、耐火煉瓦を用いて局内に新造した。 ワグネルは1873年7月8日、顧問として石田某と共に京都に到着し、万国博覧会で紹介するのに相応しい工芸家や作品を選ぶのに協力した。1877年から1年間は七宝の研究に専念しており、その成果を譲り受けた七宝会社が1881年の第2回内国勧業博覧会で名誉賞を受賞している。1878年からは京都府(槙村正直府知事)に月給400円で雇われた。1879年には五条坂に陶磁器実験工場を建設し、青磁の焼成を試みている。また、それまでの七宝の不透明釉に替わる透明釉を開発し、京都の七宝に鮮明な色彩を導入した。透明釉は日本の七宝の美しさを飛躍的に高め、4年後のパリ大博覧会では濤川惣助が名誉大賞、並河靖之が金賞を受賞し国際的にも大変評価されることになる。 これらの経験を経た後1883年から新しい陶器を研究し、旭焼を開発した。旭焼は、それまでの陶磁器が主に釉薬をかけて本焼成した後に絵付けを行い再度焼成していたのに対し、先に絵付けを行ってから釉薬をかけて焼成する釉下彩と呼ばれる手法で作られていた。これにより陶磁器の貫入や歪みを嫌うヨーロッパの嗜好に合った製品が作られると、1890年には渋沢栄一らの出資で旭焼組合が設立され、ストーブ飾タイルなどが輸出された。しかし、コストが高かったことなどからワグネル没後の1896年に組合は解散し、東京工業学校の生産も同時期に終了した。なお、渋沢栄一らによって設立された「大日本東京深川区東元町旭焼製造所」は1986年3月26日に「旭焼陶磁器窯跡」として江東区の史跡となっている。
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