ウィーン万国博覧会への協力
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「エドワード7世 (イギリス王)」の記事における「ウィーン万国博覧会への協力」の解説
外相グランヴィル伯爵が「あの病気は皇太子を以前よりもずっと親和的に変え、その作法もより魅惑的な物にした」と評したように、この頃からバーティは、特定の国や人物に敵意を飛ばすのを控えるようになり(これまで彼は妻の故国を追い詰めたプロイセンやビスマルクに敵意を飛ばしていた)、王室の人間らしく全ての国との宥和を心がけるようになった。 1872年6月には翌年春にオーストリア=ハンガリー帝国でウィーン万国博覧会が開催されることが決定し、イギリス政府からも助成金が出されることになった。バーティはグラッドストン首相に働きかけて助成金額を当初予定されていた金額の倍に変更させた。 1873年5月1日から開催されたウィーン万国博覧会の開会式に、次弟アーサー王子(1874年5月にコノート公に叙される)とともに出席した。普仏戦争の勝利でドイツ皇帝に即位していたプロイセン王ヴィルヘルム1世も同席していたが、バーティはこの席を利用して彼との親交を深めることに努めた。
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