ウィーン会議以降から第1次世界大戦まで
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「ラインラント福音主義教会」の記事における「ウィーン会議以降から第1次世界大戦まで」の解説
ラインラント福音教会の今日の管轄地域は、プロイセン王国が1815年のウィーン会議後に得たライン左岸地域のユーリヒ=クレーフェ=ベルク州(州都ケルン)とニーダーライン州(州都コブレンツ)を中心にして成立している。 この時期にユーリヒ=クレーフェ=ベルク州とニーダーライン州にあった福音主義教会の運営管理組織が固まった。1814年にデュッセルドルフに宗務局が置かれ、1815年にはユーリヒ=クレーフェ=ベルク州教会の上級宗務局になり、1816年4月23日にケルン移転した。ニーダーライン州に関しては、コブレンツにも上級宗務局が1815年に置かれた。コブレンツ上級宗務局はプロイセン軍のルクセンブルク要塞とマインツ要塞にあった衛戍 (えいじゅ)教会の管理もおこなった。1822年、ユーリヒ=クレーフェ=ベルク州とニーダーライン州は合併し、コブレンツを州都とするライン州(Rheinprovinz)が作られた。このようにラインラントでは、福音主義教会勢力がプロイセン政府とその駐屯軍の後ろ盾を得て力を増していた。 プロイセンの軍服染料として多用されていた青色(プロイセンの青、いわゆるプロイセンブラウ)を当てこすり形で、ラインラント南部地域において地元のカトリック教徒たちは福音主義教会信徒たちを「青帽子」と揶揄したと言われている。 プロイセン王国の他の地域と同様に、ユーリヒ=クレーフェ=ベルク州とニーダーライン州の福音主義教会の首長はその時々のプロイセン国王であった(summus episcopus)。1817年10月9日、マルティン・ルターの95ヶ条の論題掲示300周年の機会に、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世はルター派と改革派教会の合同を呼びかけた。教会合同に関するこの提起は宮廷説教者エイラート(1770‐1852年)によって起草された。ラインラントにある多くの教会共同体において、1817年のルター派と改革派教会合同の呼びかけは熱烈に歓迎された。ザールラントでは、1815年10月24日の段階で国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世より教会合同の呼びかけが届いていた。1817年1月、2月においてすでに勅令が示されており、同年2月にバート・クロイツナハにおいて教会の合同が決定されていた 。グンマースバッハでは合同の呼びかけが為される前の1817年8月27日に両派が合同する形で教会総会が開催されていた。しかしながら、各地域にある多くの教会共同体はルター派や改革派の信仰告白をそのまま維持し続けた。 ルター派と改革派教会、合同教会共同体の領邦教会運営管理部門は、教派ごとに分かれたままでプロイセン福音主義教会が設立された。なお、この教会名称はプロイセン王国終焉時まで何度も改称されたが、形態自体はそのまま維持された。プロイセン福音主義教会はブランデンブルク (ベルリンを含む)、東プロイセン、ポンメルン、ポーゼン、ザクセン(プロイセン王国に併合されたザクセン州)、シュレージエン、西プロイセン、ラインラント(南シュヴァーベンのホーエンツォレルン州を含む)、ヴェストファーレンというキルヘンプロヴィンツ(教会州)ごとに分けられていた。 プロイセン王国に併合されたラインラントにおいて、福音主義教会は当初はユーリヒ=クレーフェ=ベルク州とニーダーライン州(プロヴィンツ)州に分かれており、教会宗務局もケルンとコブレンツにあった。1822年にこの2つの州は併合され、コブレンツを州都とするライン州(Rheinprovinz)になった。その4年後の1826年2月16日に統一されたライン州福音教会宗務局がコブレンツに設置された。1835年、ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公国の一部であったリヒテンベルク侯国(今日のザールラント州ザンクト・ヴェンデル郡)がプロイセン王国に割譲された。その地域の福音主義教会共同体(ルター派)もプロイセン王国ラインラント(プロヴィンツ)州教会に移された。これらのルター派教会共同体は今日、オーベレ・ナーエ教会地区とザール東地区に属している。 1935年、ラインラント(プロヴィンツ)州教会は隣接するヴェストファーレン(プロヴィンツ)州教会と共に、長老制度を組み込んだ教憲を制定した。これはプロイセン福音主義教会において初めてのことであった。教会合同に反対した古ルター派がプロイセンの合同派福音主義教会から離脱した後、プロイセンの新教徒はプロイセン王国の教会としての自意識が強まり、1845年からプロイセン福音主義領邦教会という名称に変更している。 1850年、ベルリンにプロイセン福音主義領邦教会最高宗務局(EOK)が置かれた。1866年、プロイセン王国は普墺戦争に勝利し、オーストリア帝国についた領邦を併合した。新たに獲得したのはシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国全域とハノーファー王国、ヘッセン選帝侯国、ナッサウ公国、フランクフルト自由市であったが、これらの領邦にあった福音主義教会はプロイセン邦の合同派領邦教会に組み込まずに、独立して管理運営を続けることを容認した。したがって、1866年にプロイセンに併合された諸教会はベルリンにあった最高宗務局(EOK)の管轄外であった。しかしながら、例外もあり、ヘッセンのマイゼンハイム(今日のラインラント=プファルツ州バート・クロイツナハ郡の一部)はラインラント(プロヴィンツ)州教会に編入された。これらの福音主義教会共同体は今日、ナーエ・ウント・グラン教会地区に属している。 1875年、古プロイセン領邦教会は公式には古プロイセン州福音主義領邦教会と改称することになった。この領邦教会は9つの教会州で構成されていた。すなわち、ブランデンブルク(ベルリンを含む)、東プロイセン、ポンメルン、ポーゼン、ラインラント(南シュヴァーベンのホーエンツォレルン地区を含む)、ザクセン、ヴェストファーレン、西プロイセンである。 1850年にホーエンツォレルン=ヘヒンゲン侯国とホーエンツォレルン=ジクマリンゲン侯国を併合して、州都をジグマリンゲンとするホーエンツォレルン州(Hohenzollernsche Lande)が設置された。この(プロヴィンツ)州教会にあったプロテスタント共同体は1999年にラインラント(プロヴィンツ)州教会に組み込まれた。 1880年のラインラント福音主義教会はアーヘン、アン・デア・アガー、アルテンキルヒェン、ブラウンフェルス (ヘッセン)、クレーヴェ、コブレンツ、クロイツナハ、デュースブルク、デュッセルドルフ、ユーリッヒ、レンネップ、マイゼンハイム、メールス、ケルン、ニーダーベルク、アン・デア・ルーア、ザールブリュッケン、ジンメン、ゾーベルンハイム、ゾーリンゲン、トラーバッハ、トリーア、ザンクト・ヴェンデル、ヴェーゼル、ヴェッツラー、ヴィートの教会地区によって構成され、576人の牧師と牧師補と989.469人の洗礼を受けた信徒がいた。
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