ウィーン体制と工業化の波
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 07:39 UTC 版)
「ウィーンの歴史」の記事における「ウィーン体制と工業化の波」の解説
「ビーダーマイヤー」も参照 1789年に勃発したフランス革命と、それに続くナポレオン戦争は、ヨーロッパ各地を侵略し屈服させていく過程で、自由主義とナショナリズムを広めていった。1805年、アウステルリッツの戦い(三帝会戦)に敗れたハプスブルク家はナポレオンに屈服し、1809年にはナポレオンがウィーン入城を果たした。しかし、ナポレオンはモスクワ遠征の失敗から没落への道をたどりはじめ、1813年にライプツィヒの戦い(諸国民戦争)で敗れたのち失脚した。すると、翌1814年よりウィーンでオーストリア外相メッテルニヒ主導による講和会議(ウィーン会議)が開催された。「会議は踊る」と評されたように会議は長期化し、毎晩のように繰り返される舞踏会は、ある意味ウィーン経済の復興に貢献したといえる。この会議を踏まえて発足したウィーン体制は保守反動的な性格が強く、自由主義やナショナリズムは厳しく抑圧された。こうした中で、多くのウィーン市民は政治から離れて家庭生活に埋没し、ビーダーマイヤー様式の流行などに象徴されるような小市民的生活を送ることになった。18世紀後半にイギリスで始まっていた産業革命の波は、着実にウィーンにも押し寄せていた。 ヨーロッパにおいて18世紀は、合理主義的思潮と自然科学が広がって「光の世紀」と呼ばれたが、オーストリアは比較的啓蒙主義の伝播が遅れ、近代化の進展も比較的緩慢であったといわれる。しかし、ロシアやプロイセンなどと同様、啓蒙思想の伝播の比較的遅かったオーストリアでは、近代化が啓蒙専制君主を通じた特殊なかたちをもってあらわれた。1770年、マリア・テレジアはウィーン旧市街と郊外地域とを統一的な規則によって統合するため番地制度を導入し、都市空間の合理的整序を図った。後を継いだヨーゼフ2世は、1780年より修道院廃止政策を進めて、聾唖学校や軍医養成アカデミーなど福祉・教育施設を建設し、とりわけ1784年に完成した総合病院はヨーロッパ随一の規模をほこった。彼は国民より「博愛主義者」と呼ばれて敬愛された。ヨーゼフ2世はまた、市門の終夜開放をおこなった。都市生活における消費文化も浸透し、上層階級が遠足を楽しむようになると庶民にもすぐに広まり盛況を呈し、アルコールにかわってコーヒーの飲用習慣が広がるとたちまち中下層の人びとにも広がった。ウィーンでは社会的平準化が進行し、近代的メトロポリスが形成されて、19世紀にはヨーロッパでパリやロンドンにつぐ大都市へと変貌を遂げていった。 19世紀前半より交通網の整備が進められ、1837年にはウィーンと他都市を結ぶ鉄道が開通した。そのほか、ドナウ川には蒸気船が航行するようになり、ウィーン市内にも馬車鉄道が運行するようになった。徐々に工場が建設されていき、労働者階級も形成されていった。1848年、フランスで勃発した二月革命を契機として、ヨーロッパ各地で自由主義・ナショナリズムが高揚した。そして、ウィーンでも三月革命が勃発しウィーン体制は崩壊へとむかった。1848年革命はウィーンはじめオーストリア帝国全土を揺るがし、ハンガリー各地やミラノ、プラハでも暴動が起こって、ウィーンではメッテルニヒが追放されるなどの混乱のなか皇帝フェルディナント1世が退位し、甥のフランツ・ヨーゼフ1世(在位:1848年 - 1916年)が18歳の若さで跡を継いだ。
※この「ウィーン体制と工業化の波」の解説は、「ウィーンの歴史」の解説の一部です。
「ウィーン体制と工業化の波」を含む「ウィーンの歴史」の記事については、「ウィーンの歴史」の概要を参照ください。
- ウィーン体制と工業化の波のページへのリンク