家庭生活
家庭生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 18:29 UTC 版)
1981年、「組織」は4人のアメリカ人とその家族を立石里のジェンキンスの家の横に新しくアパートを建てて、そこでまとめて住まわせることを決定した。ジェンキンス・ひとみの夫妻は1983年6月1日に長女のロベルタ・ミカ・ジェンキンス、1985年7月23日に次女のブリンダ・キャロル・ジェンキンスの二女をもうけた。アパートが完成したのは遅れに遅れて1984年のことであった。引っ越す前にマカオから拉致されてきたタイ人アノーチャ・パンジョイの夫ラリー・アブシャーは死去してしまった。アパートには、未亡人となったアノーチャとジェンキンス・ひとみ一家が2階、ジェームズ・ドレスノクとルーマニア人ドイナ・ブンベアの一家、ジェリー・パリッシュとレバノン人シハーム・シュライテフの一家が3階に住み、1階は空き家とした。ドレスノク夫妻には2人、パリッシュ夫妻には3人の子がおり、アノーチャは3世帯の家族たちにとっておばさんのような存在だった。アパートは巨大な幼稚園の様相を呈し、子どもたち同士は大の仲良しであったが、親同士はそうとばかりは言えない状態だった。アノーチャのところの一室が子どもたちが4歳から6歳までの2年間、読み書きや数について学ぶ場となった。それが終わると家に隣接した農場の小学校に通ったが、学校ではプロパガンダ以上のものはほとんど教えていないようだった。 1990年代後半の「苦難の行軍」と呼ばれた時期、北朝鮮では数百万人規模の餓死者が生じ、その被害は20世紀最大といわれ、多くの人が拷問のような苦しみを味わった。それに加えて、「教化所」「管理所」と名づけられた強制収容所ではろくに食糧も与えられないなかでの苛酷な労働に、今なお数十万人あるいはそれ以上の人びとが苦しめられている。そうしたなかにあって、アメリカ人家庭は北朝鮮のなかでは特別待遇をあたえられ、はるかにめぐまれた生活を送っていたことは事実である。しかし、特権的な暮らしとはいっても、世界の大部分の国の人びとと比較すれば、話にならないほどひどい生活であった。「私たちは常に寒さと空腹と貧困と不衛生と闘っていた—来る日も来る日も、そして来る年来る年も」とジェンキンスは振り返っている。ひとみ自身もまた、いつ停電するか分からないことにはたいへん難渋したと述べている。上等なものではないにせよ中古の家電製品をそろえていたので、電気が止まれば生活に支障をきたした。水道も電気で汲み上げていたので停電すると水が使えず、雨水をためて、洗濯や食器の洗いものに利用したことがあった。水は不衛生なので、一滴のこらず必ず煮沸してからでないと、飲料用や台所用には使えなかった。 冬の暖房のために支給された石炭は指導員たちによってしばしば盗まれた。温水を流すパイプがゆがんでいるうえに元々の作りがわるいので、温水が流れない箇所があったり、空気が入り込んで流れなくなることがあるので、つきっきりで火をかき立てでもしなければボイラーを管理するのは難しかった。ジェンキンスは寒い娘たちの部屋に自家製の床暖房をつくってやったが、1997年以降は夏でも断続的に停電し、冬は常に停電していた。食用油や醤油の類は冬になると決まって凍結した。マイナス30度にもなる真冬は、家ではなるべく歩き回るようにした。停電して真っ暗ななか、身体を決して冷やさぬよう、4枚も5枚も着られるだけの服を着て、足には何枚もの靴下をはいて、家族で1つの布団にもぐり込み、固まって寝るようにした。水洗式便所に溜まっていた水が凍り、それが膨張して便器が破裂したこともあった。 毎月決まった日に米と生活費の支給があったが、生活費は最低限の保証しかなかった。4人家族としては苦しい金額で、最初に必要経費を振り分け、どうしても欲しいものがあるときは何カ月も節約できるものを削って貯金しなければならないギリギリのものであった。食品は、日本製のものは高すぎて手が出せず、たいていは中国製のもので間に合わせた。生活費が不足しそうになると、禁止されていた闇市(チャンマダン)に行って買い物をすることもあったが、「何でもあり」なので不良品・まがい物をつかまされることも少なくなかった。鶏卵などは、割るとひよこになる寸前のもの、腐っているものが混じっていることがあった。配給米も小石を混ぜてかさ上げしたもの、虫がたくさん混入したものが配られることが日常茶飯事であった。のちに、娘たちは初めて日本の米を見て「お米って白いんだね」と驚いたという。 1995年、幹部たちが何人かでやって来て、「金正日同志の偉大なるお心遣いによって、あなたがたの子どもたち全員が平壌外国語大学(の高校の部)へ入学できることになった」と告げた。しかし、それは工作員を養成するための下準備であるとも考えられ、ジェンキンスなどは実のところ猛反対であった。米国脱走兵たちが北朝鮮に抑留されていることを知る者は少なく、結婚していることを知る者、子どもがいることを知る者はさらに少ないうえに、西洋人的な風貌をもつ子どもたちは誰も北朝鮮工作員だと怪しまない。だからこそ、工作員にはうってつけなのである。金賢姫も外国語大学の学生だったところを召喚されて工作員にさせられた。ジェンキンスはたいへん心配したが、結局、学校の寮に空きがなく、アパートからの通学となり、それには川下りをともなって冬季はきわめて危険だというのですぐに退学させるほかなくなり、彼の心配の種はなくなった。
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「家庭生活」の例文・使い方・用例・文例
- 家庭生活
- 家庭生活を犠牲にしてまで富を得たいとは思わない
- 彼は仕事と家庭生活のバランスをうまく取ることができた
- 彼女はずっと仕事と家庭生活のバランスを上手にとってきた。
- 夫の会社人間からの脱却を始め、新しい夫婦関係を再構築し、ゆとりある家庭生活を形成することが理想であろう。
- 彼は自分の家庭生活に関してとても秘密主義だ。
- 彼はすっかり家庭生活に埋没していて働く気がない。
- 彼にはこの単調な家庭生活がおもしろくなかった。
- 仕事と家庭生活を結び付けたほうがいいですよ。
- 家庭生活は外国人の眼からさえぎられていた。
- テレビは家庭生活をダメにしている。
- 彼の小説で家庭生活の喜びが賛美されている.
- 家庭生活.
- 仕事に心配事があると楽しい家庭生活は送れない.
- 彼の性格には普通のサラリーマンの家庭生活とは基本的に相容れないものがある.
- あの男は家庭生活がちゃんとしていない.
- 家庭生活への順応
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