家庭生活、性格など
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/05/22 00:20 UTC 版)
父は寺子屋しかでていない大阪の古着屋であったが、母の弟は医師になったが夭折した。兄直木三十五は十歳はなれていたが、傲岸不遜の大衆作家、弟清二は勤勉実直の歴史学者といわれたが、幼少期の性格は逆であったという。父は多くの本を買い与えたが、両者ともよく本を読んだ。清二の読書量は膨大で、作文力も中学校の校長を驚嘆させた。東京大学文学部東洋史学科に入学、学生時代は近藤健一から奨学金を与えられた。講義は博大な学殖と巧みな話術を駆使し、滔々としてよどみなく、聴く人を魅了した。松山高等学校、新潟高等学校時代は旧制高校最後の名物教授であった。軍国主義の時代に反対しそれゆえ、新潟高校に転勤した。昭和20年(1945年)4月の講義で「戦後はアメリカを中心とする諸国とソビエトを中心とする諸国の対立とあらゆる植民地の解放と独立がある」と予言した。特別な情報を得ているわけでなく、新聞を透徹した歴史家の眼でみての予言であった。戦後の生活には苦労したが、新聞などに書くことが多くなり、また多くの本を執筆した。興業組合と佐渡汽船の顧問となり、大量の鰤や牡蠣を貰った。妻は戦後すぐ亡くなったが、再婚せず一男二女の子供との家庭生活を大事にした。趣味は読書と碁で、新潟大学学部長時代に部長室に碁盤を持ち込んだ。後、碁の木谷九段一門と仲良くなった。戦後はマルクス主義に反対した。年老いてからインドやソビエトなどの外国旅行に精をだした。「アジアの帝王たち」など多くの本を書いた。家庭では生野菜を食べない大食漢であり、体重は90kgあったという。
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