家庭生活と晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/09 08:34 UTC 版)
1836年にフランス人女性のアレクサンドリーヌ・フェリシー・ヴィルミノ(Alexandrine Félicie Villeminot)と結婚し、6児を儲けた。ほとんどの子供が早世であり、1862年にはアレクサンドリーヌにも先立たれている。ブルの子供たちは以下の通りである。 Ole Storm Felix Bull (1837年-1839年) Alexander Ole Felix Etienne Bull (1839年-1914年) Thorvald Bull (1841年-1862年) Eleonore Felicie Bull (1843年-1923年) Ernst Bornemann Bull (1844年、生後5日で死去) Lucie Edvardine Bull (1846年-1868年) 1868年にウィスコンシン州マディソンで演奏会を開いた後で、富豪の材木商の娘、セーラ・チャップマン・ソープ(Sara Chapman Thorp, 1850年-1911年)と出逢う。1870年に再び訪米すると、二人の歳の差にもブルはかかわらず求婚し始め、同年6月にノルウェーで密かに結婚した。同じく1870年の後半にマディソンで晴れて公に挙式を行なった。セーラ夫人とは、一粒種の娘オレア(Olea, 1871年-1913年)を儲けた。 1872年には、ベルゲンの南に位置する、ホルダラン県オスのリーショーエン島(またはリーソーエン島)を購入した。建築家のコンラート・フレドリーク・フォン・デア・リッペを雇って、島の邸宅を設計させた。1880年には、病身を押してシカゴで引退公演を行なった後、同年8月17日に癌のためにリーショーエン島の自邸で息を引き取った。ブルの葬列は、おそらくノルウェーの歴史に残る最大の見世物であり、ブルの名声を裏付けるものとなった。亡き骸を運ぶ船を、15隻の蒸気船と何百隻もの(一説によると一千隻の)小舟が先導したのであった。 セーラ・ブルは、晩年の夫の演奏旅行に同伴し、時には手ずからピアノの伴奏を受け持った。ブルの歿後、遺族はマサチューセッツ州ケンブリッジに移住した。セーラは同地の文化界の中心人物となり、1883年には夫についての回想録を上梓している。後年はヒンドゥー教の思想に興味を寄せ、グルの初期の渡米を援助した。
※この「家庭生活と晩年」の解説は、「オーレ・ブル」の解説の一部です。
「家庭生活と晩年」を含む「オーレ・ブル」の記事については、「オーレ・ブル」の概要を参照ください。
- 家庭生活と晩年のページへのリンク