没落への道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 14:58 UTC 版)
第一次世界大戦の敗北後、エンヴェルは盟友タラートらとともにイスタンブールを脱出した。彼らは黒海からクリミアを経てひとまずドイツのベルリンに亡命した。ここでエンヴェルはドイツ国防相のゼークトや、ポーランド系のユダヤ人ボリシェヴィキでドイツ共産党創設にかかわったカール・ラデックなどと知り合い、ドイツ・ロシア・トルコの三国で反連合国同盟を結んで、カフカスと中央アジアを根拠地に英領インドを攻略するという計画をとなえた。 折から成立間もないソビエト連邦は、中央アジアのテュルク系諸民族の支持を得るためにエンヴェルの名声を利用することを策しており、このソ連政府の意を受けたラデックらの説得により、1920年8月14日にエンヴェルはモスクワへ入った。エンヴェルも彼らの力を借りてオスマン帝国を復興することを目論んでいたとされる。 この時期にエンヴェルはさまざまな人物と接触しており、その中にはタタール人の革命運動家であるスルタンガリエフも含まれている。はじめ政敵とはいえ、ソ連政府の支援により祖国解放のために戦っているムスタファ・ケマルのアンカラ政府に武器を援助することを試みたが、この計画は混乱のなかでさしたる意味も効果も持たなかったという。 同年9月はじめ、エンヴェルはバクーで開かれた東方諸民族大会に出席し、イスラーム革命団体連合を結成。また、アナトリアに乗り込んで、ムスタファ・ケマルに代わって政権を掌握してトルコを解放することを目論み、叔父ハリル・パシャをアナトリアへ送り込み、自身もグルジアのバトゥミで待機に入った。しかし計画はムスタファ・ケマルのギリシア軍に対する赫々たる勝利を前に失敗に終わった。
※この「没落への道」の解説は、「エンヴェル・パシャ」の解説の一部です。
「没落への道」を含む「エンヴェル・パシャ」の記事については、「エンヴェル・パシャ」の概要を参照ください。
- 没落への道のページへのリンク