山中常有とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 山中常有の意味・解説 

山中常有

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/22 21:37 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

山中 常有(やまなか つねあり、生年不詳 - 1709年12月30日宝永6年11月30日))は、日本の江戸時代庄屋出雲国の戦国武将山中幸盛の子孫。山中常夢の長男、母は不詳、または山中義明ともいい、通称は(4代目)吉和屋彌右衛門と称した。

墓所広島市西区の海蔵寺と広島市佐伯区の光禅寺にもあり、法号は良善院盛興浄心居士、または釋常有信士。

生涯

山中幸盛の娘である八重姫(盛江)の子孫である。父の山中常夢が貞享4年(1687年)に草津村から五日市海老塩浜へ居を構える事となり、一家で五日市海老塩浜へ引越した。(1701年)元禄14年2月に山中常夢(3代目草津吉和屋彌右衛門)が没した為、家督を相続する事となり、(4代目)吉和屋彌右衛門を称し塩浜経営を継承し有力な浜主となり、五日市海老塩浜の庄屋などの役職を務めた。妻との間には3人の男子を儲けるも3人とも早世した為に、長女に大海田の藤屋市兵衛の次男である藤屋頼貞(のちの5代目吉和屋彌右衛門)を婿養子に迎え入れた。常有以降の歴代の吉和屋(山中家)の当主は吉和屋彌右衛門の通称を継承し塩浜経営を行ったが、江戸後期に入ると塩田不況により、有力な浜主も塩浜をやむなく手放さざるを得なくなり、海老塩浜の塩浜も衰退していき、天保年間には吉和屋(山中家)は塩田不況の影響により塩浜経営に失敗し、多額の借金を背負った為に没落への道を辿る事になった。

参考文献

  • 広島県立文書館『山中家文書展パンフレット』平成19年(2007年)

関連項目

先代:
山中常夢
山中氏歴代当主
1701年 - 1709年
次代:
山中常諦



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「山中常有」の関連用語

山中常有のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



山中常有のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの山中常有 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS