山中常夢とは? わかりやすく解説

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山中常夢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/22 21:46 UTC 版)

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山中 常夢(やまなか つねゆめ、生年不詳 - 1701年3月10日元禄14年2月1日))は、日本の江戸時代庄屋出雲国の戦国武将山中幸盛の玄孫。山中常久の長男、母は不詳、前名は新兵衛といい、通称は(3代目)草津吉和屋彌右衛門と称した。または、山中信頼とも名乗った。

墓所広島市西区の海蔵寺境内墓地にあり、法号は釋常夢信士。

生涯

山中幸盛の娘である八重姫(盛江)の曾孫である。寛文6年(1666年)8月、父の山中常久(2代目草津吉和屋彌右衛門)が隠居した為、家督を相続する事となり、(3代目)草津吉和屋彌右衛門を称し酒造業を継承した。しかし、延宝6年(1678年)に三次浅野支藩が草津村の吉和屋(山中家)の屋敷内に御茶屋敷(藩の公的な宿泊施設)を設置した事により、吉和屋(山中家)は屋敷内にて酒造業を行う事ができず廃業に追い込まれた。その為に常夢は貞享4年(1687年)に草津村から五日市海老塩浜へ居を構える事となり、五日市海老塩浜の庄屋などの役職を務め、塩田を開発し塩浜経営に専念し有力な浜主になった。常夢以降の歴代の吉和屋(山中家)の当主は吉和屋彌右衛門の通称を継承し塩浜経営を行ったが、江戸後期に入ると塩田不況により、有力な浜主も塩浜をやむなく手放さざるを得なくなり、海老塩浜の塩浜も衰退していき、天保年間には吉和屋(山中家)は塩田不況の影響により塩浜経営に失敗し、多額の借金を背負った為に没落への道を辿る事になった。

参考文献

  • 広島県立文書館『山中家文書展パンフレット』平成19年(2007年)
  • 草津幸福稲荷社『案内板』

関連項目

先代:
山中常久
山中氏歴代当主
1666年 - 1701年
次代:
山中常有



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