山中幸徳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/26 02:05 UTC 版)
山中 幸徳(やまなか こうとく、生年不詳 - 1897年)は、日本の英学者、教育者。第三高等学校(現・京都大学)教授、同志社英学校(現・同志社大学)教授、大阪・英和学舎(現・立教大学)教授[1][2]。
人物・経歴
肥前国唐津藩士、山中俊介の長男として生まれる。幼名は小太郎[1]。
唐津小笠原家の世嗣である小笠原長行から学資支援を受けて、米国に留学し、オレゴン州のオーベル大学に入学すると、勉学につとめて卒業し、文学士・神学士の学位を取得[1]。
日本に帰国すると、第三高等学校(現・京都大学)や同志社英学校(現・同志社大学)の教授を歴任し、高等官五等に任ぜられる[1]。
そのほか、大阪・英和学舎(現・立教大学)の教授も務めた。英和学舎では、校長のテオドシウス・ティングを始め、アーサー・モリス、ヘンリー・ラニングら有力な宣教師が授業を受け持ったほか、洋行帰りの山中幸徳に加え、当時英文学者として名声を得ていた清水泰次郎(後の同志社英学校教授、第五高等学校教授)、後に立教中学校初代校長となる左乙女豊秋らを擁し、英語では断然他校を圧倒した[1][2]。
1897年(明治30年)京都において病死し、左京区にある若王子山キリスト教共同墓地に葬られた[1]。
脚注
- ^ a b c d e f 『長行公と山中藩士』 唐津藩開国論秘話
- ^ a b 『立教大学新聞 第89号』 1930年(昭和5年)6月18日
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