没落と死
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韓馥は奮威将軍に任命されたものの実権がなかったという(『後漢書』「袁紹伝」)。韓馥の従事のほとんどが韓馥を見捨てる中、耿武・閔純だけは袁紹を暗殺しようとしたが、袁紹に取り立てられた田豊により殺害された(『後漢書』「袁紹伝」が引く『英雄記』)。 やがて韓馥は袁紹の勢いを恐れ、袁紹の下を去り張邈の下に身を寄せた。 その後、張邈と袁紹の使者が会見している時、袁紹の使者が張邈に耳打ちするのを見た韓馥は、殺されるのではと勘違いし厠で自殺してしまった(魏志「袁紹伝」)。
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没落と死
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「嘉吉の乱」も参照 嘉吉元年(1441年)6月24日に満祐が義教を殺害すると、満政の運命は大きく変わった。幕閣は満祐追討軍を編成し、赤松氏支配下の播磨・美作・備前は乱鎮定の恩賞とする事を申し合わせた。京都に残留していた満政も満祐追討軍に加わり、9月には満祐本城の城山城攻略に参加した。この際、満祐の弟義雅は満政の陣に下って切腹し、嫡子千代丸(後の赤松時勝)を託した。 戦後の播磨守護の座をめぐり、乱鎮定の最大功労者である山名持豊と満政は激しく争った。しかし翌閏9月に持豊の播磨守護就任が決まった。一方満政は御料所として播磨守護の管轄外に置かれた明石・加東・美嚢三郡を支配する、実質的な分郡守護の座を獲得するに留まった。しかし持豊は播磨全体の掌握を目指し、満政の三郡支配権をも要求した。中国地方に勢力を持った持豊は管領畠山持国も懐柔を考えざるをえない実力者であり、後ろ盾である義教を失った満政に抵抗するすべはなく、文安元年(1444年)1月に三郡は軍功として持豊に与えられ、満政は分郡守護の座も失った。 文安元年10月、満政は嫡子の教政と満祐の甥則尚と共に播磨に下り、山名氏の軍勢と小競り合いを開始した。11月には山名一族が大挙して播磨に下向し、戦闘によって国内は混乱した。文安2年(1445年)1月に満政追討の治罰綸旨が下り、4月24日に寝返った従兄弟の有馬持家によって摂津有馬で討たれた。 以降、赤松氏は播磨での勢力を失うが、満政が保護した時勝の子赤松政則の代になって播磨守護として復権する事になる。
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