閔純
字は伯典。韓馥の別駕従事《後漢書袁紹伝》。『三国志演義』では「関純」。 公孫瓚の侵入を恐れた韓馥が冀州牧の地位を袁紹に譲ろうとしたとき、閔純は長史耿武・治中李歴・騎都尉沮授とともに「冀州には武装兵百万と兵糧十年分があり、孤立した袁紹軍など手のひらの赤子同然。乳をやらずに飢え死にさせることもできるのに、どうして彼に州をやろうとするのですか」と諫めたが、聞き入れられなかった《袁紹伝・後漢書同伝》。 のちに袁紹が入城すると、十人の従事たちは韓馥を見捨てて逃げ去ろうとした。ただ袁紹の追っ手だけが心配だったので、閔純と耿武が武器を手に取って自ら殿軍を受け持ったが、防ぎきることはできなかった。のちに袁紹は田豊に命じて彼ら二人を殺害した《後漢書袁紹伝》。 【参照】袁紹 / 韓馥 / 公孫瓚 / 耿武 / 沮授 / 田豊 / 李歴 / 冀州 / 騎都尉 / 従事 / 治中従事 / 長史 / 別駕従事 / 牧 / 三国志演義 |
閔純
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閔 純(びん じゅん、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の政治家。字は伯典[1]。
正史の事跡
姓名 | 閔純 |
---|---|
時代 | 後漢時代 |
生没年 | 不詳 |
字・別号 | 伯典(字) |
出身地 | 〔不詳〕 |
職官 | 冀州別駕 |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 韓馥 |
家族・一族 | 〔不詳〕 |
韓馥配下の別駕。初平2年(191年)、韓馥が袁紹から冀州に入らせてほしいと打診された時、閔純は耿武・李歴・沮授と共にそれを拒否するよう諌めた。しかし韓馥は聞かず、袁紹を迎え入れてしまった。
袁紹が冀州入りして韓馥と面談した際には、他の同僚たちが韓馥を見捨てて逃げ去る中、耿武と共に韓馥の傍らで剣を構え、他の袁紹の兵士達が立ち入るのを拒んだ。これを見た袁紹は、後に密かに部下の田豊に指図し、耿武と閔純を暗殺させた。果たしてその後、袁紹に冀州を奪われた韓馥も、失意の内に自殺した。
物語中の閔純
小説『三国志演義』では、「関純」という名に改められて登場している。『演義』では、関純は史実のように袁紹迎え入れを諫止しておらず、袁紹迎え入れの使者になるよう、韓馥から命じられているだけである。それでも最後は、耿武と共に袁紹を暗殺しようと斬りかかったが、袁紹の傍らに控えていた文醜から返り討ちにされ果てている。
脚注
- ^ 《英雄記》
参考文献
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