閔瑗植
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/19 08:08 UTC 版)
閔 瑗植 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 민원식 |
漢字: | 閔 瑗植 |
発音: | ミン・ウォンシク |
日本語読み: | びん えいしょく |
閔 瑗植(ミン・ウォンシク、민원식、1898年6月[1] - ?)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、起業家でもあった、大韓民国の言論人で、本貫は驪興(驪興閔氏)。
閔泳煥の6番目の叔父にあたる閔ヨンチョル(민영철)の3男として生まれた[2]。
日本統治時代に入る前、数え年9歳の時に家族で朝鮮を離れ、ロシア帝国の支配下にあった威海衛租借地を経て上海へ移り[3]、その後、上海から帰国するフランス人司祭に従って[4]フランスに留学して[5]、1918年にフランスで尋常中学校高等科を卒業し[1]、トゥールーズ大学に入学したとされ、朝鮮人として初めてフランスの大学に入学した人物とされる[4]。
1919年に金奎植がパリ講和会議への参加を試みて渡仏し、大韓民国臨時政府外務総長・欧米外交委員会代表として活動した際には、通訳として補佐にあたったとされる[4]。
その後は、従兄の閔熙植(민희식、後の大韓民国交通部初代長官)[4]に従ってアメリカ合衆国に渡り[5]。1921年にコロラド州で高等学校を卒業したとされるが[1]、これについては「커타랜드」(不詳)で金鉱について学んだとする説[3]もあり、(この時点では渡米しておらず)同年にトゥールーズ大学を卒業したとする説もある[4]。
1922年にいったん朝鮮に戻って[3]京城府西大門町のデビソン商会に勤務した後、再度渡米して閔熙植が在籍していたネバダ大学に入学し、1928年に卒業し、シカゴ大学大学院へ進んだが、程なくして退学した[1][4]。
1929年6月に、朝鮮に戻り、7月に朝鮮総督府鉄道局雇員庶務課勤務となり、11月には鉄道従事員養成所教諭となったが、この職は1932年より前に離れている[1]。
その後、東亜交通公社の京城支社顧問を務め[5]、大韓民国臨時政府である金奎植の補佐もした。西洋画家である尹時善と結婚した。
1945年9月6日には、白南鎭(백남진)、南廷麟(남정인)などとともに英字新聞『Seoul Times(ソウル・タイムズ)』(後の『Seoul Daily News(ソウル・デイリー・ニュース)』)を創刊した[6]。11月30日には、連合通信(합동통신)を設立してAP通信と契約し、同社は12月20日に国際通信(국제통신)と合併して合同通信となった[7]。
1946年12月には、東亜交通公社職員が作った朝鮮旅行社(조선여행사)の社長に推された[5]。 1950年の朝鮮戦争中に、妻の尹時善と共にソウルにいたところを拉致された。
脚注
- ^ a b c d e 沢井実「帝国圏鉄道における日本人技術者の配置と技能者養成:朝鮮総督府鉄道局を中心に」『アカデミア 社会科学編』第23巻、南山大学、2022年6月30日、158頁、CRID 1390574334779958528。
- ^ “보관된 사본” (2008年6月9日). 2017年11月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年3月13日閲覧。
- ^ a b c “閔瑗植氏帰國”. 毎日申報. (1922年2月27日):“민원식(閔瑗植)씨 귀국 (1922.02.27.)”. 근대뉴스 (2022年2月27日). 2025年3月13日閲覧。
- ^ a b c d e f “민원식, 프랑스 대학에 최초로 입학한 재원”. FRANCEZONE (2019年7月18日). 2025年3月13日閲覧。
- ^ a b c d 조선여행사 조선여행사 - ウェイバックマシン(2017年11月7日アーカイブ分) - 여행신문
- ^ “서울데일리뉴스 (서울DailyNews)”. 한국민족문화대백과사전. 한국학문화연구원. 2025年3月13日閲覧。
- ^ 국제통신 - 한국민족문화대백과사전
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