没落と子孫の動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/08 00:48 UTC 版)
桐生地域の動向は史料に現れず、桐生佐野氏の様子は不明である。「赤城神社年代記録」によれば、元亀4年(1573年)3月、由良成繁が桐生城を落としたとある。少なくとも、由良勢による桐生落城までは国衆として桐生にあったと推測されている。 黒田によれば、桐生佐野氏が下野佐野氏・厩橋長野氏とともに上杉謙信による永禄3年(1560年)の関東進攻に際してすぐに同調せず、翌年に帰順するが離反し、永禄6年(1563年)に上杉勢から攻撃されているなど、謙信に反抗的であったため、処罰され桐生領の実権を失ったのではと指摘される。 子孫の由緒書によれば、由良氏によって領地を失ったあとは、その由良氏に保護されその領内に隠棲状態で存続していたとされる。 由良郷に隠棲した桐生重綱(親綱)は慶長3年(1598年)に死去し、その子・又次郎は寛永元年(1624年)9月に甲府藩主徳川忠長に49歳で仕官したが、その後は不明である。 一方、桐生重綱(親綱)の先代・直綱には実子・為綱があった。為綱は、少なくとも重綱(親綱)の家督継承時には安房の里見氏と里見の庇護下にあった小弓公方のもとへ身を寄せている。実子が家督継承しなかったことについては、桐生佐野氏の上位勢力の動向と絡んで、家中の内訌などがあった可能性が指摘される。のち為綱は小弓公方の家老となり、子孫は喜連川藩藩士として続いた。また為綱と共に安房に身を寄せた姉妹は小弓公方家第2代足利頼純に嫁ぎ、月桂院(豊臣秀吉側室)を生んでいる。
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