没落 1966年-1968年
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「ミシェル・アフラク」の記事における「没落 1966年-1968年」の解説
新事務総長となったラッザーズもアフラク派であった。ハーフィズ大統領の加入を受けて、民族指導部はバアス党の法律上の統治部門であるとされた。ビータールが首相、ウムランが国防大臣、マンスール・アル=アトラシュが革命指導国民評議会議長となり、ハーフィズは大統領職を保持した。軍事委員会のジャディードはウムラン派を逮捕することで反撃したが、ウムランもジャディード派の将校を解任することでそれに答えた。しかし、1966年2月23日、ジャディードとアサドが1966年シリアクーデターを起こし、ハーフィズ政権を打倒して、バアス党を掌握した。アフラクはシリアから逃れ、祖国に帰ることはなかった。 アフラクの失脚は、バアス党の分裂を招き、党組織はシリア派とイラク派の2つに分裂した。シリア派バアス党はジャディードとアサドを中心とし、1940年代に別のバアス運動を率いていたアルスーズィーをバアス党思想の父として奉じた。一方のイラク派バアス党はバクルとサッダーム・フセインを中心とし、これまで通りにアフラクをバアス思想創始者として扱った。クーデター直後の第9回党大会でアフラク派は追放され、イラク代表団はシリアのバアス党と決別した。一方のイラク・バアス党は同月にベイルートで、「真の」第9回党大会を開催し、アフラクを民族指導部事務総長に選出した。その際、長年の同志のビータールは離党を宣言し、バアス運動から完全に手を引くことになった。
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