没落と滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/23 14:51 UTC 版)
マフムード・シャーの息子のマスウード・シャー(カタロニア語版)は、イルハン朝が混乱期に入ると実力者としてタブリーズなどを支配していたジャライル朝のタージュッディーン・ハサン・ブズルグを頼って逃亡。ハサンは援軍としてチョバン家出身のピール・フサイン(カタロニア語版)(チョバンの四男シャイフ・マフムードの息子)を与えて帰国させマフムード・シャーは彼と共同してファールスを統治するが、1343年に対立して殺害された。ピール・フサインはマスウードの弟であるアブー・イスハーク(カタロニア語版)を擁立して実権を握るが、アブー・イスハークはチョバン朝のシャイフ・ハサンと連合してピール・フサインを追放・殺害して実権を取り戻した。 だが1353年にピール・フサインの後援によってヤズドとケルマーン両地方を領していたムザッファル朝のムバーリズッディーン・ムハンマドの攻撃を受けてシーラーズが陥落する。アブー・イスハークはイスファハーンに逃れるも、ここも4年後にムバーリズッディーン・ムハンマドによって陥落させられて捕らえられて殺され、インジュー朝は崩壊した。
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