ウィーン体制(1815-1848)の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:19 UTC 版)
「反ユダヤ主義」の記事における「ウィーン体制(1815-1848)の時代」の解説
ナポレオンの敗北以降のウィーン会議(1814-1815年)では1792年以前への復帰と勢力均衡が原則とされた。また各地のナポレオン法典は無効とされ、ユダヤ人政策は各国家の自由裁量となった。 ウィーン会議以降の国際秩序をウィーン体制と呼び、1848年革命に崩壊するまでの時代を指す。ナポレオン戦争に勝利したオーストリア、ロシア、プロイセンの復古勢力は革命の再発を防ぐために、1815年にキリスト教的友愛による平和を提唱する神聖同盟を締結、オーストリアの宰相メッテルニヒが主導して1818年にイギリスと敗戦国フランスを加えた五国同盟を締結してウィーン体制を確立した。五国はドイツの自由主義運動を弾圧した。 スペインではナポレオン軍の敗北によりジョゼフ・ボナパルトは追放され、スペイン・ブルボン復古王政のフェルナンド7世が復位した。これに対して自由主義者リエゴがスペイン立憲革命を起こし、イタリアでもカルボナリ党がスペインを模倣してナポリ・ピエモンテで蜂起したが、革命の波及を恐れた五国同盟によって両者は鎮圧された。 他方で、イスパノアメリカ独立戦争(1808-33)などを通じてラテンアメリカ諸国が相次いでスペイン帝国からの独立を果たし、スペインは中南米植民地を失っていった(ラテンアメリカの独立)。さらに1821年からオスマン帝国よりの独立を目指したギリシャ独立戦争が始まり、これをめぐる諸国の利害衝突によりウィーン体制は揺らいだ。当初ウィーン体制は正統主義を主張してギリシャの独立を否定していたが、ロシアが正教会弾圧を理由に介入を開始し、さらにイギリスとフランスが介入、ナヴァリノの海戦や露土戦争で連合軍に敗北したオスマン帝国は1832年ギリシャ独立を認めた。列強はバイエルン王子オットーをギリシャ王オソン1世とするギリシャ王国を樹立した。 一方、1830年のフランス7月革命に対抗してロシア、オーストリア、プロイセンが1832年10月に旧秩序維持を再確認したが、革命干渉を忌避したイギリスとフランスが真摯協商を結んだことでウィーン体制は分裂し、各国の1848年革命によって崩壊した。
※この「ウィーン体制(1815-1848)の時代」の解説は、「反ユダヤ主義」の解説の一部です。
「ウィーン体制(1815-1848)の時代」を含む「反ユダヤ主義」の記事については、「反ユダヤ主義」の概要を参照ください。
- ウィーン体制の時代のページへのリンク