ウィーン体制の綻び
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:00 UTC 版)
「ギリシャ独立戦争」の記事における「ウィーン体制の綻び」の解説
当初、オスマン帝国の過度の弱体化を望んでいないヨーロッパ諸国の政府間では、ギリシャ独立に対して非協力的であった。これは当時、ヨーロッパはナポレオン戦争後のウィーン体制に移行していたが、絶対王制の正統主義がスペイン南米植民地の反乱、ピエモンテやナポリの自由主義的、民族主義的革命、ブルボン王朝に対するスペインの自由主義的蜂起(スペイン立憲革命)、ブルシェンシャフト運動の前に揺らいでおり、神聖同盟、イギリス、フランスはスペイン革命の後処理のためにライバッハで会合を開くなどしていた。このため、ギリシャの独立はこの会合では完全に否定された。なかでもオーストリア宰相クレメンス・メッテルニヒはイギリスと共にロシア皇帝アレクサンドル1世に対して「ギリシャでの出来事は正当であるオスマン帝国への反乱である」と正統主義の主張を唱え、バルカン半島での安定を求めていたアレクサンドル1世もこれに同意していた。 しかし、ムハンマド・アリーの登場はヨーロッパに再び親ギリシャ主義の台頭を促進させ、フィレリネス委員会はヨーロッパ全域で募金活動を行ったが、1822年4月にキオス島でオスマン帝国海軍提督カラ・アリに率いられた艦隊によるキリスト教徒虐殺 (en) が発生するとその規模は拡大した。これらの活動は限られた成果でしかなかったが、親ギリシャ的な訴えは一定の成果を上げた。そしてこれらギリシャの独立による影響の前に、それまで眺めるだけにとどめていた列強三国イギリス、ロシア、フランスらも重い腰を上げざるをえない状況になりつつあった。そして西ヨーロッパに広がっていた親ギリシャ主義の影響で多くの理想主義者、詩人、民族主義者、冒険家らがギリシャ独立戦争に参加し、ヨーロッパをはじめとする世界中の世論がギリシャの革命に同情的な雰囲気になっていたことも影響を及ぼした。 しかし、メッテルニヒはこの事態を憂慮しており、ヴェローナで会議を開催して事態収拾しようとした。しかし、イギリスは当初こそイギリス国王ジョージ4世、外相カスルレーとメッテルニヒの間でトルコの自制、ロシアの不干渉、ギリシャの勝利を望まないことで意見が一致していたが、カスルレーが自殺してジョージ・カニングが後を継ぐと状況が一変した。カニングは内政不干渉主義者でヨーロッパ諸国に吹き荒れる革命運動に対して理解と声援を送っており、メッテルニヒとは相対する考えであった。 1822年、ヴェローナで会議が開催されると議論自体は「トルコの自制を待つ」という結論で終了したが、これはトルコの圧政について議論が続いて会議が紛糾する恐れがあったためであったが、結局、この会議が開催されたことで1815年以来続いていたウィーン体制に暗雲が垂れ込めた。 ロシアはオスマン帝国がコンスタンディヌーポリ総主教 グリゴリオス5世を処刑し、さらに教会を破壊したこと。そしてイプシランディスが撃破された後もワラキア、モルドバ両公国の非常事態体制を解除しなかったことから皇帝アレクサンドル1世は態度を硬化させ、1821年7月、G・A・ストロガノフを通じてオスマン帝国へ最終通告を行った上で国交断絶、1825年8月、ギリシャ問題に関連したことについて神聖同盟から脱退した。そしてイギリスはロシアの単独行動を危惧したこととヨーロッパ全体にギリシャ革命への同情が波及することを恐れていた。 この状況に至り、列強三国は三国の内、どこか一国が抜け駆けすることにより東地中海の権益を独り占めするのではないかという疑心暗鬼にとらわれ始めていた。そしてオーストリア、イギリスにはロシアが南下することで、バルカン半島や黒海を抑える恐れがあったため、これを阻止する思惑があった。
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