ウィーン体制下の闘争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/15 01:08 UTC 版)
「ミケーレ・カラスコサ」の記事における「ウィーン体制下の闘争」の解説
1820年にはナポリ革命によりミケーレ・モレッリやジュゼッペ・シルヴァティを中心とするナポリ革命政府が樹立された。革命政府ではカラスコサは戦争大臣に任命されて軍隊のトップとして活躍した。 しかしナポリ革命政府はリュブリャナで開催されていたライバッハ会議(英語版)で、立憲を約束していたはずのフェルディナンド1世に裏切られてしまいオーストリア帝国との戦争を余儀なくされる。そしてイタリア統一運動最初の大規模戦闘となるリエーティ・アントロドーコの戦い(イタリア語版)でカラスコサはグリエルモ・ペペとともに4万人の志願兵や両シチリア王国軍を率いてオーストリア帝国軍に対抗したが、劣勢に立たされたことで自らは戦闘に直接参加していないにも拘らず比較的早期に降伏、これが戦闘終結に結び付いた。自らは武勲を上げているにも拘らず降伏条約であるカザランカ条約(イタリア語版)に署名し戦争を終結させたことに続いて、リエーティ・アントロドーコの戦い(イタリア語版)でも敗北がまだ確定的ではない段階で降伏し戦闘を早期に終わらせたことから、降伏と終結の将軍として知られた。その後ナポリ革命政府は崩壊し、ナポリ革命は終焉を迎えた。 ナポリ革命後、カラスコサはマルタ、次いでイギリスに亡命した。1823年には立憲主義者と戦わなかった罪、ナポリ革命に加担した罪で欠席裁判で死刑判決を受けた。また革命の同胞であるグリエルモ・ペペからはリエーティ・アントロドーコの戦い(イタリア語版)の戦いで早々に降伏した事を恨まれており、両者の不仲は1823年に決闘にまで発展している。その後はナポリ革命の回顧録を出版し、フェルディナンド2世により恩赦が出された後は1848年にナポリに帰国。1848年革命に参加した。 1853年5月10日、ナポリで死去。
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