ウィーン体制下
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ナポレオン敗退後、フランス革命以前の旧体制が復古し、フランスに領地を奪われた君主や貴族たちが領地を回復させた(ウィーン体制)。銀行業でも旧勢力が復古し、1815年11月のパリ条約に定められたフランスの賠償金の調達からロスチャイルド家は弾き出された。 ついで1818年10月の同盟軍のフランス撤兵と賠償金分配を話し合うアーヘン会議でもロスチャイルド家は弾き出されそうだったが、この時にジェームスがフランス公債を大量に買って一気に売り払うという圧力をかけたことが功を奏し、オーストリア帝国宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒから会議に招かれ、ザーロモンとカルマンが名声を高めた。以降メッテルニヒとの関係が強まり、1822年にはロスチャイルド一族全員がハプスブルク家より男爵位を与えられ、また五兄弟の団結を象徴する五本の矢を握るデザインの紋章も与えられた。以降ロスチャイルド家はその名前に貴族を示す「von(フォン)」や「de(ド)」を入れることになった。 イギリスでの活躍は特筆に値する。南海泡沫事件を受けて制定された泡沫法(Bubble Act)が、イギリスの海上保険業をロンドン保険会社(London Assurance)とロイヤル・エクスチェンジ保険会社(Royal Exchange Assurance, 現:アクサ)に独占させていた。これらの会社に計数係として入社を試みた、ネイサンの甥ベンジャミン・ゴムペルツ(Benjamin Gompertz)がユダヤ人ゆえに採用されなかった。そこでネイサンが対抗してアライアンス火災・生命保険会社をつくった。資本金500万ポンド、アライアンス株は発行前からプレミアムつきで取引された。設立趣意書公表の直後、アライアンス理事団は議会に対して泡沫法の廃止を要求した。1824年に廃止法案が議会に提出され、採決と裁可を得た。しかしロイズが身内の生活を理由に、協会員の一人にアライアンス株を15株買わせて株主総会へ送り込んだ。アライアンス理事が会社の業務へ海上保険を加えようと提案したとき、ロイズの総会屋は定款の不変性を理由に反対した。アライアンス火災はとりあえず引き下がった。しかしロスチャイルド家は資本金500万ポンドで新たにアライアンス海上保険会社をつくり、ゴムペルツを支配人とした。これはいつのまにかアライアンス火災と合併した(アライアンス保険)。翌1825年の恐慌でイングランド銀行の救済に貢献し、ロスチャイルド家は後に公認の鋳造所を持つほどに同行との関わりを深める。 1834年、ロスチャイルド家は大規模にアメリカ公債を引受けた(連邦準備制度の歴史を参照)。ヨーロッパでは鉄道事業に積極的な投資を展開した。1835年、ウィーン家のザロモンは皇帝の認可を得て鉄道会社を創設し、中欧の鉄道網整備に尽くした。フランクフルト家のアムシェルも中部ドイツ鉄道、バイエルン東鉄道、ライン川鉄道などの整備に尽くした。パリ家のジェームズもフランスや独立したばかりのベルギーの鉄道敷設に尽力したが、同じユダヤ系財閥のペレール兄弟(フランス語版)と競争になった。ペレール兄弟のクレディ・モビリエは、会社型クローズドエンド会計の投資信託である。1860年代末にクレディ・モビリエは単なる貯蓄銀行となるが、その後フランス・ドイツで同じような投資銀行が次々と設立された。
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ウィーン体制下
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「コシュート・ラヨシュ」の記事における「ウィーン体制下」の解説
1802年、ゼンプレーン地方の小さな町モノクで、小さな所領を持ち、弁護士を職業とする下流貴族の長子として生まれた。コシュート家の祖先は13世紀から現在はスロバキアに属するトゥローツ地方に住んでいた。過去の一時期においてコシュート家はスロバキア語を使っていたこともあり、また、度々休暇を共に過ごした叔父コシュート・ユライ (Košút Juraj) はスロバキアの熱狂的な愛国者であった。しかし、コシュート家はハンガリー王国を構成する貴族の一員であり、一家の持つスロバキア系の血統が政治的に問題視されることはなかった。ラヨシュ自身も自身をハンガリー人だと認識しており、さらに興味深いことには公的に国家としてのスロバキアの存在を否定している。ちなみに母、カロリーナ・ヴェーバー (Karolina Weber) はルター派のドイツ系であり、ラヨシュ自身はハンガリー系、スロバキア系、ドイツ系の祖先を持つことになる。 ペシュト王立大学(後のブダペシュト大学)で法律を学んだのち、父の跡を継いで故郷で弁護士となり、1825年にはペシュト(現在のブダペシュトの一部)議会の議員となった。1832年から1836年のポジョニ(当時のハンガリーの首都。現在のブラチスラヴァ)での国会開会中に発刊した『議会通信』の内容が、ウィーンの批判を含む急進的な内容であるという理由で発行禁止となり、1837年に懲役4年の刑を宣告された(実際は3年で釈放)。しかし、釈放後には『ペシュト新報』を発刊し、編集長として徹底した社会改革と完全な民族独立を掲げて国民の間に人気を博し、漸進的改革をとなえるセーチェーニ・イシュトヴァーンから政治的指導権を奪った。1847年、国会議員に選ばれ、優れた弁舌で急進派をリードした。
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