ブルシェンシャフト学生運動と反ユダヤ主義
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「ヤーコプ・フリードリヒ・フリース」の記事における「ブルシェンシャフト学生運動と反ユダヤ主義」の解説
「反ユダヤ主義#ウィーン体制下のドイツ」を参照 フリースの政治思想としては、自由主義者であり、ドイツ統一論者であり、ブルシェンシャフト運動に加担した。 反ユダヤ主義者でもあり、1816年の『ユダヤ人を通じてもたらされるドイツ人の富ならびに国民性の危機について』では、ユダヤ人にはドイツ人と見分けるための標章を義務づけるべきで、ドイツからユダヤ人が出ていくことを推奨した。フリースによれば、ユダヤ人の貨幣経済における支配的な役割を非難し、ドイツからユダヤ教を根絶やしにすべきだと主張した。 1816年のパンフレット Von deutschem Bund und deutscher Staatsverfassung(ドイツ的ブントとドイツ憲法について)は青年ドイツに捧げられ、1819年にドイツ連邦を構成する国が集まって出されたカールスバート決議へのアジテーションに強い影響を与えたが、この決議によってブルシェンシャフト運動は弾圧された。 1819年3月に作家アウグスト・フォン・コツェブー(August von Kotzebue)を暗殺したブルシェンシャフト急進派でイエナ大学の学生カール・ザントはフリースの生徒だった。フリースがザントに宛てて出した手紙では秘密結社に参加することを警告する内容で、警察によってフリースの陰謀の証拠とされ、マインツ委員会でフリースは非難された。ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公カール・アウグストによってフリースは教職を剥奪され、講義することを禁止された。 その後1824年には復職し、1838年には無制限の講義権が認められた。
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