広義のネーデルラントでの意味
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/28 17:04 UTC 版)
「南ネーデルラント」の記事における「広義のネーデルラントでの意味」の解説
ネーデルラントは非常に裕福であったため、負債を抱えていたハプスブルク家にとって重要な土地であった。しかし、他のハプスブルク領と異なり、ネーデルラントは商人階級の地位が高い土地であった。ブリュッセルを起点とする帝国郵便が貿易網として商人へ利益をもたらしていた。この郵便事業は、ランニングコストではなくイニシャルコストの解決を目的として、早くから裾野広く民間の参入を許した。スペインはハプスブルク家の戦費を徴収するために重税を課そうと試みたし、それは昔からあるネーデルラントの特権を守るための口実ともなっていた。これは、宗教的に非寛容で頑固なカトリック教国のスペインの統治に対する抵抗とともに、1570年代のスペインに対するネーデルラントの反乱につながった。 ホラントとゼーラントに率いられた北部7州は、1581年にネーデルラント連邦共和国として独立を得ることができたが、南ネーデルラントはパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼの活躍でスペインにより再占領された。南ネーデルラントは18世紀初めに行われたスペイン継承戦争によりオーストリア・ハプスブルク家に継承された。 オーストリアの法律では、古くからある特権に基づいた各州の防衛というものが、2世紀前のフェリペ2世の時と同様に、ヨーゼフ2世にとっても問題となった。これは、1789年から1790年頃にかけて大きな反乱を引き起こした。オーストリア領ネーデルラントは最終的にフランス革命戦争により失われ、フランスに併合された。 続くナポレオン戦争の後、1815年のウィーン会議において、オーストリアのネーデルラントの喪失は確定された。ウィーン体制下で、この地はオラニエ=ナッサウ家の下に北部ネーデルラントとともにネーデルラント連合王国へ統合された。南東のルクセンブルク大公国は、同時にドイツ連邦にも属することになったが、これはオラニエ=ナッサウ家がライン地方に持っていた所領を巡ってプロイセン王国との間で駆け引きが行われた結果であった。 1830年に、カトリックが優勢な南部はベルギー王国として独立した(北部はカルヴァン派が優勢であった)。1839年にルクセンブルクの北西の2/3の領域はベルギーに併合されてリュクサンブール州となった。ウィレム1世は残存地域からなるルクセンブルク大公国の自治を承認したが、その署名自体は1867年まで行われなかった。 オランダ(ネーデルラント)王は1890年までルクセンブルク大公であった。しかし、ウィレム3世の死後、ウィルヘルミナ女王がオランダの王位を継承した際に、サリカ法典に従うルクセンブルクは、女王による統治とその権利を認めなかった。そのため、オランダとルクセンブルクの同君連合は終わりを告げた。
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