スペインの統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/04/25 00:36 UTC 版)
詳細は「スペイン領フロリダ」を参照 「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」も参照 民間の伝説に拠れば、あまり真実らしくないもののフアン・ポンセ・デ・レオンは若返りの泉を探しているときにフロリダを発見したという。1513年3月27日にポンセ・デ・レオンが初めて半島を見たときにそれを島と取り違えたと言われることが多いが、おそらくはバハマ諸島の島をみたものと思われる。4月2日に新発見の土地の東海岸に上陸した。ポンセ・デ・レオンはこの土地を"La Pascua Florida"(花のイースター)と名付けた。これはおそらく、その一帯に多くの植物相が溢れていたこと、あるいはスペインの復活祭パスカ・フロリダの時に到着したという事実に拠っていた。しかし、ポンセ・デ・レオンがフロリダに到着した最初のヨーロッパ人ではなかった可能性がある。というのも彼は少なくとも一人のスペイン語を話せるインディアンに会ったと言っているからである。ポンセ・デ・レオンは1521年に植民地を始めるために道具と開拓者を連れて再度フロリダを訪れたが、インディアンによる繰り返し攻撃によって追い出された。フロリダ内陸に足を踏み入れた記録は征服者の生き残りによるものだった。パンフィロ・デ・ナルバエスの探検隊が1528年にフロリダの西海岸を探検したが、海上をメキシコに逃れようとして遭難した。この遠征隊の士官の一人アルバル・ヌニェス・カベサ・デ・バカが生き残り、フロリダとメキシコの間を9年間掛けて辿り着き、スペインに戻ってその観察記録を出版した。そのことが1539年のエルナンド・デ・ソトによるフロリダ侵略に繋がった。この遠征の隊員がフロリダのインディアンと生活様式や挙動の詳細について出版した。1559年、トリスタン・デ・ルナ・イ・アレラーノはペンサコーラに短期間開拓地を建設したが、1561年には放棄された。 フランスもこの地域に興味を持ち始めたことで、スペインの植民地化計画を加速させることになった。1562年にジャン・リボーがフロリダに遠征隊を率いて現れ、1564年、その仲間ルネ・グーレーヌ・ド・ロードニエールが、現在のジャクソンビルにカロリーヌ砦を造ってユグノーのための天国にした。1565年、サン・アグスタン(現在のセントオーガスティン)がペドロ・メネンデス・デ・アヴィレスによって築かれ、アメリカの植民地の中でも最古の恒久的ヨーロッパ人開拓地となった。アメリカ合衆国の現領土の中ではプエルトリコのサンフアンに続いて2番目ということである。 これを活動の拠点として、スペインはカトリック教会伝道所の建設を始めた。 1565年9月20日、メネンデス・デ・アヴィレスはカロリーヌ砦を攻撃し、カトリック教徒を除いてフランス守備兵を全て殺し、砦をサン・マテオと改名した。2年後にドミニク・ド・グールグがスペインから開拓地を奪取し、スペイン守備兵を皆殺しにした。カロリーヌ砦の最初の破壊以後は、セントオーガスティンがフロリダで最も重要な開拓地となった。そこは長い間砦以上のものではなく、しばしば攻撃されて焼かれ、住民の大半は殺されるか逃亡した。1586年にイギリス船の船長で時には海賊であったフランシス・ドレーク卿がこの町を略奪し焼いた時は、特に荒廃した。ローマ・カトリックの宣教師団はセントオーガスティンを活動拠点として使い、現在のアメリカ合衆国南東部中に伝道所を造った。この宣教師団は1655年までに26,000人のインディアンを改宗させたが、1656年争乱と1659年の疫病流行が壊滅的なものとなった。小さな拠点やセントオーガスティンですら、海賊の攻撃は容赦しないものがあった。 17世紀を通じて、バージニアやカロライナ植民地のイギリス人開拓者がスペインとの境界を徐々に南に押し下げる一方で、ミシシッピ川沿いのフランス人開拓者はスペインが領有権主張する土地の西部に侵入してきていた。1702年、イギリスのジェイムズ・ムーア大佐と同盟するヤマシー族およびクリーク族がセントオーガスティンの町を攻撃し破壊したが、砦の支配はできなかった。1704年、ムーアとその部隊は北部フロリダの伝道所を焼き、スペインに友好的なインディアンを処刑し始めた。スペインの伝道制度が崩壊し、スペインと同盟していたアパラチー族インディアンが敗北(アパラチー族の虐殺)したことで、フロリダは奴隷狩りの対象となって、それはフロリダキーズまで拡がり、インディアン人口を激減させた。1715年から1717年のヤマシー戦争は大量のインディアン逃亡者を生み、ヤマシー族は南のフロリダに逃れてきた。1719年、フランスはペンサコーラにあったスペイン開拓地を占領した。 イギリスとその植民地は繰り返しスペインと戦争を行い、特に1702年と1740年にはセントオーガスティンを占領した。イギリスはスペインの役人がフロリダに逃げ込む奴隷に対して寛容であり奨励してもいたことに怒った。侵入してきたセミノール族は土地のインディアンの大半を殺した。イギリスがフロリダを占領した1763年には約3,000人のスペイン人がいたが、ほとんど全員が直ぐに退去した。1783年にスペインの支配に復帰したが、スペインは開拓者や宣教師を送らなかった。アメリカ合衆国がここを1819年に支配下に置いた。
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