スペインの空白期間(1763年 - 1800年)
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「ルイジアナ州の歴史」の記事における「スペインの空白期間(1763年 - 1800年)」の解説
ミシシッピ川から東の領土大半は、ニューオーリンズ周辺とポンチャートレイン湖周辺の郡部を除き、フレンチ・インディアン戦争の結果としてイギリスに割譲された。フランス領ルイジアナの残りは七年戦争の後、1763年のパリ条約によってスペインの所有するところとなった。 ルイジアナを支配したのはスペイン政府であるという事実にも拘わらず、この地域へのフランス人移民の数は、フレンチ・インディアン戦争の他の重大な影響のために急速に増え続けた。アカディア地方(現在はカナダのノバスコシア州)から数千のフランス語を話す人々が、新しく支配者となったイギリスから故郷を追い出された後で、ルイジアナに向かった。彼らは主に現在アケイディアナと呼ばれるルイジアナ南西の地域に入った。アカディアの難民はスペイン人に歓迎され、その子孫はケイジャンと呼ばれるようになった。 カナリー諸島からスペイン語を話す移民も到着しており、イスレニョと呼ばれた。彼らは1778年から1783年に移民した。 スペイン支配の間、新しい開拓者やクレオールはプランテーションで働かせる非常に多くの奴隷を輸入したので、自由人と奴隷の人口は急速に増加した。アメリカ人開拓者の中にはバージニア州やノースカロライナ州で生まれた奴隷を連れてくる者もいたが、ポアント・クーピーの住民録はほとんどの奴隷が奴隷貿易業者によって直接アフリカから連れてこられたことを示していた。1763年、ニューオーリンズからポアント・クーピー(バトンルージュの北)に移った開拓者には、3,654人の自由人と4,598人の奴隷が含まれていた。1800年の西フロリダを含む国勢調査に拠れば、ルイジアナ低地には19,852人の自由人と24,264人の奴隷がいた。国勢調査は何時も同じ地域を含むものではないが、この頃は人口の過半数が奴隷だったことを示している。スペイン統治時代の記録はフランスの奴隷貿易についてよく残されているとは言えず、アフリカ人奴隷の具体的な出身地を調べることは難しい。しかし、その総数の多さは、歴史家のグウェンドリン・ミドロ・ホールがルイジアナ低地の「再アフリカ化」と呼ぶものになり、その文化に強く影響した。 1800年、フランスのナポレオン・ボナパルトはサン・イルデフォンソ条約でスペインからルイジアナを取り戻したが、この条約は2年間ほど秘密にされていた。ナポレオンがアメリカ大陸に大植民地帝国を再建する秘密の野望を持っていたという文書が明らかにされた。しかしこの考えは、ハイチ革命の後でフランスがハイチを再度征服しようとして失敗し、挫折した。
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