スペインの盛衰
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1571年にレパントの海戦でオスマン帝国の海軍を撃破し、同年ルソン島にマニラを建設、さらに1580年にはポルトガルを併合して新旧両大陸に広大な植民地を有し、「スペインが動けば、世界はふるえる」「太陽の沈まぬ国」とよばれたフェリペ2世(在位:1556年 - 1598年)時代のスペインだったが、1588年にはエリザベス1世(在位:1558年 - 1603年)統治下のイングランドに上陸作戦を企図したものの、アルマダの海戦で敗北を喫した。 イングランドでは1600年に東インド会社が結成され、こののちマドラス(1639年)、ボンベイ(1661年)、さらにカルカッタ(1690年)を拠点にしてインド経営に乗り出した。北米大陸では1607年ヴァージニア会社によってヴァージニア植民地がつくられ、1619年にはタバコ・プランテーションのためヴァージニア植民地に黒人奴隷を輸入した。
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スペインの盛衰
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「近世における世界の一体化」の記事における「スペインの盛衰」の解説
詳細は「太陽の沈まない国」および「無敵艦隊」を参照 1571年、スペインはローマ教皇・ヴェネツィア共和国と連合してレパント海戦でオスマン帝国海軍を破り、同年マニラを占領してアジアにも拠点を確立した。1580年、スペイン系ハプスブルク家はポルトガル王位を兼ねることとなり、ヨーロッパ大陸ではネーデルラントや南イタリアなどを属領とし、中南米やフィリピン、旧ポルトガル領(マカオ、マラッカ、ゴアおよびアフリカ大陸沿岸)の海外植民地を含めて「太陽の沈まない国」を実現した。 絶頂期にあったのはフェリペ2世の在位中だったが、これに対し、イングランドのエリザベス1世がスペインの覇権に挑んだ。エリザベスは、海賊たちがスペイン船を襲うのを公認、奨励した。1577年、南イングランド出身で熱心な新教徒でもあった海賊フランシス・ドレーク船長は、「新大陸」沿岸を航行するスペイン船を私掠船で次々に襲って銀を奪い、莫大な富を得て、そのまま太平洋を横断しイングランドに帰還して、史上2番目の世界周航者となった。なお、エリザベスはフェリペ2世の抗議にもかかわらず、ドレークを騎士に叙している。 カトリック系のスペインに対し、カルヴァン派が多いネーデルラント(低地地方)がスペインに対して反乱を起こしたところ(八十年戦争)、イングランドはネーデルラントを支持した。後世、オースティン・チェンバレン((en)、ネヴィル・チェンバレンの異母兄)も「『低地』の独立こそイギリスの主要利害であり、その国境はわれわれの国境であり、その独立の喪失はわれわれの独立に対する致命的打撃となる」と述べている。 そのため、イングランド-スペイン間の関係は悪化した。1588年アルマダの海戦によりイングランドがスペインの無敵艦隊を壊滅したことを契機に、スペインの勢力は下り坂に入り、商業の発展が著しい北部ネーデルラント(オランダ)とイングランドが覇権争いを繰り広げることとなった。
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