独立の喪失
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 23:22 UTC 版)
「エストニアの独立回復」の記事における「独立の喪失」の解説
詳細は「エストニアのソビエト連邦への併合(ロシア語版)」を参照 ロシア内戦やドイツ帝国軍の干渉によって旧ロシア帝国領バルト地域が揺れるなか、エストニア第一共和国は1918年2月24日に自国の独立宣言(英語版)を発した。その後、国際社会からの独立承認も得たエストニアは、ドイツ軍やソビエト・ロシアから侵入した赤軍を独立戦争(英語版)によって撃退し、1920年2月2日にタルトゥ条約によってロシアとの和平を締結した。 その後、第二次世界大戦開戦が迫る1939年8月23日、ソビエト・ロシアの後身であるソビエト連邦は、ナチス・ドイツとの間に独ソ不可侵条約を締結した。しかし、その条約には秘密議定書(ロシア語版)が附属しており、その内容は、バルト三国などを両大国が当事国たちの与り知らぬところで分割するというものであった。 大戦が勃発すると、バルト三国はすぐさま中立宣言を発したが、ソ連は秋には軍事的圧力を行使して、三国との間に相互援助条約を締結した。そして翌1940年夏、ソ連はこの条約を盾に、三国に80万人の赤軍兵を送り込んで最後通牒を発し、国内に左派系新政権を樹立させた。ソ連当局に監視され、非共産党系候補が事実上排除された選挙の結果、成立した三国の新議会は7月に、自国のソ連への加盟を要求した。結果、8月に三国は「自発的に」ソ連へ編入され、その20年余りの独立時代は幕を閉じた(バルト諸国占領)。
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