独立に至る経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 09:58 UTC 版)
デビュー間も無くの人気沸騰で、毎日がアイドル雑誌の取材やテレビ出演など息つく暇なく多忙な日々に追われた。また、事務所社長の大里がキャンディーズの元マネージャーだった事から、改めて渡辺プロダクションに契約プロデューサーとして出向しその解散コンサートにかかりっきりとなったため、原田の活動を十分にケアーすることができなかった。この芸能界のリズムに巻かれ進んでいたのでは、アーティストとしての創作活動など無理なように思え、先々の不安が重なったことが事務所移籍を決断した大きな理由だった。結局、アミューズは半年で退社し、RCサクセションが所属していたりぼんへ移籍。入れ替えに入社したのがサザンオールスターズで、大里は「原田が辞めていなかったら、サザンオールスターズを売り出す余裕はなかった」と話している。 またそのかわいいルックスとあえてピアノを弾いて歌うイメージ戦略、松本隆の繊細な詞の世界も、デビュー時の人気に一躍買ったわけだが、その一方で“ひ弱で軟弱なアイドル”的なイメージで見られる事も多く、原田自身は、一貫した音楽で伝えたいテーマを持っていたことから、脱アイドルを望み、意識的にロックテイストとメッセージ性の強いハードな方向へと進んでいく。 そして、初めて作詞も手がけた6枚目のシングル「OUR SONG」は、どうしても強力なメッセージを込めたロックバラードに仕上げたかったという。9枚目のシングル「MARCH」でも「自分だけの道を、自分の形で、自分以外のために」とこれからの方向性を示唆した。この曲を最後に、より自分らしい活動を求め21歳で独立。原田自身はこのデビュー時を振り返って、この時代、楽曲達があったからこそ、これから頑張らなきゃいけない時期まで今の自分が生かされてきたと語っている(他、主にライブで発言された)。
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