独立の志士達とシモン・ボリーバルの独立戦争とは? わかりやすく解説

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独立の志士達とシモン・ボリーバルの独立戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/24 19:36 UTC 版)

コロンビアの歴史」の記事における「独立の志士達とシモン・ボリーバルの独立戦争」の解説

近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立」も参照 19世紀はじめにはじまったベネスエラや、ラ・プラタ地域での独立運動呼応してこの地でも独立戦争始まりスペイン軍独立派死闘繰り広げられた。独立運動10年以上に及んだ1806年からフランシスコ・デ・ミランダ率いられ解放軍により、隣のベネスエラ総督領から解放戦争始まったことを受けてヌエバ・グラナダでも独立戦争始まった1810年7月アントニオ・ナリーニョ副王追放してサンタフェ・デ・ボゴタ中心にクンディナマルカ共和国スペインからの独立宣言した同時にカルタヘナカルタヘナ共和国独立宣言して、すぐにカルタヘナ中心としたカリブ海側の五州がヌエバ・グラナダ連合州として合流した。 翌1811年ボゴタ議会ボゴタ以外の地方諸州とボゴタヌエバ・グラナダ連合州としてナリーニョの下に合流し軍隊指揮権全体指導ボゴタが持つことを認められた。ナリーニョとフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデル1812年崩壊したベネスエラ共和国代表として抵抗続けていた、シモン・ボリーバル統領とするベネスエラ独立勢力らと協力してスペイン軍戦いボリーバル1813年にはベネスエラを再び解放するが、本国でのフェルナンド7世反動的復位によってスペイン軍は再び勢力増した連邦派(カルタヘナ派)と集権派(ボゴタ派)の不一致突かれる形で1814年2月にはボゴタ陥落し、ナリーニョはスペイン連行され投獄されてしまった。ボリーバルその後カリブ海側のカルタヘナ拠点スペイン軍戦いボゴタ奪還したものの、1815年6月カルタヘナ起きた王党派蜂起敗れ辛うじてイギリス領ジャマイカ逃れた1816年5月スペイン軍攻撃によりボゴタ陥落した。 しかし、ボリーバルジャマイカ有名なジャマイカ書簡書いた後、イギリスなど友好関係結んで援助を受けることに成功し、さらにハイチ渡ってハイチ南部支配していたアレクサンドル・ペション大統領に、ラテンアメリカ解放後黒人奴隷解放することを条件物心両面援助受けた1816年にはまたもやベネスエラ上陸したが、ジャネーロの協力取り付けただけで敗れてしまい、ハイチに引き返すことになったそうこうしているうちにボゴタ陥落してしまったが1817年今度準備整えてベネスエラに再侵攻しスペイン軍の裏をかいてまずヌエバ・グラナダ解放しようとしたベネスエラアンゴストゥーラ解放された後、1818年にはジャネーロ(オリノコ川流域平原部=リャノに住む、牧童たちのこと。ベネスエラガウチョ)の頭目だったホセ・アントニオ・パエスの力を借りることに成功し1819年にはアンゴストゥーラ臨時首都としてのベネスエラ第三共和国再建されコロンビア共和国創設された。 1819年8月ボヤカの戦い勝利するボゴタ解放されヌエバ・グラナダ最終的に解放されて、ボリーバルコロンビア共和国建国正式に宣言しコロンビア首都改名されボゴタ定められた。こうしてボリーバルヌエバ・グラナダ拠点故国ベネスエラ解放進め1821年にカラボボの戦い (1821年)(英語版)での勝利によりカラカス解放されると、ベネスエラ最終的に解放され両国改め正式にコロンビア共和国形成した1820年には解放されグアヤキルが、1822年にはキト併合され、このコロンビア共和国現在のコロンビアベネスエラエクアドルパナマ全て及びペルーガイアナブラジル一部を含む北部南米一帯占め大国家となったボリーバルがペルー・ボリビア方面解放に向かう中、1821年9月ヌエバ・グラナダ人で、ヌエバ・グラナダ代表してボリーバル副官務めていたサンタンデルコロンビア共和国副大統領となり、不在大統領に代わってヌエバ・グラナダ治めていたが、1827年ボリーバル帰還後コロンビア共和国集権的まとめようとするボリーバルと、連邦的な要求をするサンタンデルや、ベネスエラ支配する アントニオ・パエスの不満は大きくなっていったサンタンデル1828年にはボリーバル暗殺謀ったため亡命した。さらにキト巡ってコロンビアペルー戦争起き、もはやボリーバル威信低下は明らかであったその後ボリーバルコロンビア分裂回避すべく統治したが、上手く行かずベネスエラ独立要求したコロンビア共和国維持解放者力量持ってしても不可能かと思われた。 1830年エクアドル(旧「南部地区」。キトグアヤキルクエンカ連合して赤道共和国名乗った)と、故郷ベネスエラパエス指導下で完全独立果たし南米大陸統合夢に敗れ自分政治的な努力全て無為に終わったことを悟った解放者終身大統領辞職しヨーロッパ向かってマグダレーナ川を下る中、サンタ・マルタ付近失意内に病死した。翌1831年ラファエル・ウルダネータ政権崩壊する同時にコロンビア共和国崩壊し残存部ヌエバ・グラナダ共和国として再編成図った

※この「独立の志士達とシモン・ボリーバルの独立戦争」の解説は、「コロンビアの歴史」の解説の一部です。
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