独立の新居にて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 08:38 UTC 版)
兄・謙一の千僧の家を出た本当の理由を、基次郎は友人らには話さず、〈大阪まで来たが身体が強くなつてゐるのには意を強くした、健康状態もいい〉と強がり、〈一人で暮す〉ことを決意した。浜寺や畿内に療養地がないかと考えたが、10月25日に、すぐ近くにあった空き家の住吉区王子町2丁目13番地(現・阿倍野区王子町2丁目17番29号)に移住した。 千僧からの送られた引っ越し荷物の中に、『中央公論』の田中西二郎が改めて送付した12月号への正式な原稿執筆依頼があったのを見つけた基次郎は、あと2週間の締め切りではどうみても間に合わないために新年号(11月末日締め切り)に延期してもらった。 独立の新居は、玄関が二畳分、四畳半の座敷と三畳の台所だけと狭かったが、誰に気兼ねすることなく仕事ができる場所となった。基次郎は生れて初めて「梶井基次郎」という表札を掲げて格別の感慨を持ち、執筆作業に精を出した。母・ヒサは食事をこの家に運び、掃除や身の回りの世話をした。 10月末にこの家を訪問した三好達治は、基次郎から「筆が進まない」「書き出しがどうも気にいらない」と書きかけの原稿を見せられた。呼吸の調整もままならない基次郎だったが、その病気の「呻吟の跡を微塵もとどめない」文章に三好は打たれ、原稿用紙を上下に揺すって激賞した。基次郎は、新聞のヒマラヤ登山の記事を指して、「上空で登山者が経験するところの呼吸困難を、僕はかうして机の前で創作の筆をとりながら感ずるのだ」と言ったという。 三好が一泊して帰る時、基次郎は三好の制止にも聞かずに下駄を静かに履いて外の大通りまでやっと歩き出て、三好がバスに飛び乗った後も、ずっと立って見送っていた。バスの中から振り返って確認した、その遠ざかる基次郎の立ち姿が三好が記憶した最後の基次郎となった。 11月から本腰で基次郎は執筆に励んだ。ペンを持つのも容易でない重い病状に難航しながら12月2日に冒頭から書き直し、9日の夕方になんとか書き上がった。すぐに自分で清書し、それを母が校正して10日の深夜2時に清書原稿が完成した。10日が締め切り日のため、弟・勇はすぐさまそれを持ってオートバイで中之島の渡辺橋南詰めの大阪中央郵便局まで飛ばし、航空便で中央公論社に送って間に合った。
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