独立と賠償
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/10 19:13 UTC 版)
「ジャン・ピエール・ボワイエ」の記事における「独立と賠償」の解説
ハイチは1804年に独立しジャン=ジャック・デサリーヌが皇帝となるが1806年に倒され、アンリ・クリストフの支配する北部のハイチ王国とペションの支配する南部のハイチ共和国とに分かれた。クリストフが自殺するとペションの後継者となっていたボワイエはハイチ王国を併合した。1821年にサントドミンゴがスペインから独立すると侵攻して1822年2月にこれも併合した。ボワイエは1843年にエリート支配層の支持を失って追放されるまでイスパニョーラ島全島を支配した。 ボワイエはフランスの脅威を国際的に取り除くことを願って交渉を始めた。14隻のフランスの軍艦がポルトープランス沖に停泊する中で、1825年7月11日に合意が結ばれ、ボワイエは賠償に署名した。そこで5年以内に1億5000万フランを支払う見返りとして、フランスがハイチを独立国と認めると宣言した。この金額はボワイエの交渉の末1838年に9000万フランに減額されたものの、ハイチ経済に壊滅的な打撃となり、残酷にもボワイエは賠償の最初の分を支払うためのフランスからの3000万フランの借入の交渉を強いられた。 ハイチの人々は自給的農業に移行していたが、このためにボワイエは半封建的小作農業を強制することになった。ハイチの人々はこの状況に気分を損ね、彼らをなだめるためにボワイエは最初の革命時に試みられて放棄された土地分配計画を復活させた。大きなプランテーションは細分され、土地が分配されて、地方の住民には彼らの小自作農地に応じた生産割当てが与えられた。ボワイエ政権は1843年まで持ち堪えたが、ひどい経済状況が地震によってさらに悪化し、恵まれない地方の住民が1月末にシャルル・リヴィエル=エラールの下に蜂起した。2月13日ボワイエはハイチからジャマイカに逃れ、フランスに亡命しパリで亡くなった。 ボワイエの子孫は今日も困窮したハイチで生活している。
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