独立と経済発展(1811年-1865年)
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「パラグアイの歴史」の記事における「独立と経済発展(1811年-1865年)」の解説
「近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立」も参照 1808年にナポレオンのフランス帝国軍の圧力の下でスペイン国王フェルナンド7世が退位させられ、ナポレオンの弟のホセ1世が新たな王に据えられると、スペイン各地で伝統的支配層や民衆の抵抗運動が始まった。スペインでの政変に呼応して、スペイン領インディアスの諸都市でもホセ1世への忠誠を拒否したクリオーリョ達が自治を求めて反乱を起こした。ブエノスアイレスで結成されたカビルド・アビエルト(開かれた議会)はコルネリオ・デ・サアベドラを議長に政治委員会を結成し、1810年5月25日に五月革命を達成したが、リオ・デ・ラ・プラタ副王領のバンダ・オリエンタルやコルドバ、アルト・ペルー、そしてパラグアイはブエノスアイレスの意向に従わない態度を示した。このため、ブエノスアイレス政府は翌1811年の1月から3月にかけてマヌエル・ベルグラーノ将軍率いる遠征隊をパラグアイ征服のために派遣した。この遠征隊は総督ベルナルド・デ・ベラスコ(スペイン語版)率いるパラグアイの王党派軍に敗れたが、結果的にはこの遠征によってパラグアイのクリオーリョにも自治意識が芽生えた。自治派に屈した総督ベラスコは同1811年5月16日に自治派のフランシア博士を加えた臨時政府を樹立し、臨時政府は5月17日にブエノスアイレスからの独立を宣言した。1813年10月12日には初めてパラグアイ共和国の名称が使用され、パラグアイは未だに独立戦争を続ける他のイスパノアメリカ諸国に先駆けて、南米の奥地に孤立した独立国家としての道を歩み始めた。 1814年に最高統領に就任したフランシア博士が議会から独裁権を獲得すると、フランシアはパラグアイの政治的安定を脅かすと思われた外国の干渉や自由主義思想の流入を防ぐために、鎖国政策の下に独裁的なやり方で国内を統合した。この時期に反対者は徹底的に弾圧され、フランシアはクリオーリョ層を解体するためにクリオーリョ同士の結婚を禁止してインディオとクリオーリョの人種融合を図り、大土地所有者から接収した土地を民衆に分与した。フランシアの下で国家は当時パラグアイに存在しなかった民族ブルジョワジーの役割を果たし、農民と結んだフランシアは植民地時代から続くクリオーリョ寡頭支配層の根絶を果たした。 フランシア博士が1840年に没すると、1841年にカルロス・アントニオ・ロペスとマリアノ・ロケ・アロンソ(スペイン語版)が二頭政府を樹立した後、1844年にアントニオ・ロペスが大統領に就任した。アントニオ・ロペスは、フランシア時代の鎖国政策を一転し、開国と富国政策に努めて外国貿易が再開され、ヨーロッパからの先進技術の導入も進められた。パラグアイからはマテ茶や木材が輸出され、鉄道、造船所、製鉄所の建設など工業化も進み、社会面ではラテンアメリカ初となる義務教育制度が導入された。当時の国土の98%は公有化されており、農民には売却を禁じた上で公有地の使用権を分与し、74存在した国営農場の下で二毛作などを導入した生産性の高い農業が行われた上に、保護貿易政策の下で貿易は大幅な黒字を達成し、外国債務は存在せず、通貨は強く、安定していた。一方外交面では、アントニオ・ロペスはパラグアイをアルゼンチンの一部だとみなしていたフアン・マヌエル・デ・ロサスと、ロサス失脚後パラグアイ川の自由航行権を得るために武力を背景とした外交圧力をかけたブラジル帝国によって脅かされていた。ブラジルとの衝突は1858年に交渉によって回避されたが、その後も領土問題を巡ってブラジルとは緊張した関係が続いた。このような周辺国との緊張関係もあってアントニオ・ロペスの時代には軍事力が強化され、1862年までには常備18,000人、予備45,000人に達する当時のブラジルに匹敵する強力な軍隊が整備された。 1862年10月にアントニオ・ロペスが没すると、息子のフランシスコ・ソラーノ・ロペスが新たな大統領に就任した。
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