広義のボナパルティズム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/27 18:57 UTC 版)
「ボナパルティズム」の記事における「広義のボナパルティズム」の解説
より広い意味では、革命運動を強権でもって弾圧しようとする権威主義的・反動的な運動一般のことを指す。ボナパルティズムという用語を最初にこの意味で用いたのは、フランス第二帝政の成立を同時代人として目撃し、これを批判したカール・マルクスであった。マルクスは、第二帝政やナポレオン3世に対し、 『歴史的な大事件や重要人物はすべて、いうならば二度繰り返される』とヘーゲルはどこかで指摘したが、彼は以下のことを付け加えるのを忘れている。一度目は悲劇だが、二度目は茶番劇だということを。 — マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』第1部冒頭 と辛辣な評価を下している。以後、発展段階史観的な視点に立つ者にとっては、「勃興するプロレタリアートと旧来の支配的勢力たるブルジョアジーとの間で勢力均衡が生じ、いずれもが国家体制に対するヘゲモニーを握れない状況下で、その双方に対して自立的な強権を振るう、自作農民など中間層を基盤に持つ権威主義的な国家権力が、一時的に発生する現象」と、ボナパルティズムを普遍化して解釈するようになった。その意味ではブルジョワ国家の最終段階とされるが、実際はブルジョアジーの上昇期に出現し、人民投票や普通選挙など民主主義要因を含む独裁制という特異な近代の権力形態の一つである。[要出典] ソ連時代のロシアではより単純に、軍事力によって共産主義体制の転覆を目指す活動全般を(半ばレッテル貼り的な用法で)指していた。スターリン時代にはミハイル・トゥハチェフスキー、ゲオルギー・ジューコフら、有力で高名な赤軍の指導者、軍事英雄たちがボナパルティストとして槍玉に挙げられた。生来、猜疑心の強いスターリンは、赤軍内部に多数のボナパルティストが潜伏しているものと頑なに信じ込み、そのことが赤軍大粛清の原因にもなった。[要出典] 今日ではボナパルティズムは(少なくとも歴史学の上では)あくまで近代フランス史上の特定状況下で発生した現象として分析されるようになっている。[要出典]しかし、マルキシズムの系譜を引く政治思想に基づいて革新運動を行う団体や個人は、しばしば今日でも、当世の国家権力による強権発動と彼らがみなした現象を、プロレタリアートとブルジョアジーの均衡状況が発生したが故の一時的な現象と解釈する。[要出典]そして、プロレタリアートの権力掌握に向けて直ちに克服すべき性格の国家権力が出現したとして、権力批判のプロパガンダに多用する傾向がある。[要出典] なお、古典的な意味ではドイツ帝国のヴィルヘルム1世とビスマルクの二頭政治もボナパルティズムに分類される。[要出典]
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