ウィーン体制樹立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 17:22 UTC 版)
「ポーランド立憲王国」の記事における「ウィーン体制樹立」の解説
ナポレオン没落後(1814年 - 1815年)、西欧諸国は欧州秩序再構成のためウィーン会議を開催した。オーストリア帝国外相クレメンス・メッテルニヒが主催したこの会議では、以下のことが定められた。これをウィーン体制と呼ぶ。 フランス・スペイン・ナポリ - タレーラン=ペリゴールの提言した「正統主義」に基づき、ブルボン朝の政権を復活(王政復古)。 イギリス - オランダからケープ植民地とセイロン島の領有権、フランスからマルタ島を獲得。 オーストリア - 北イタリア(ヴェネツィア・ロンバルディア地方)の領有権を獲得。ベルギー地方をオランダに割譲。ドイツ連邦の議長となる。 プロイセン - ドイツ連邦に加盟、ラインラントを取得。ポンメルンとザクセン北部を獲得。 ドイツ連邦 - ライン連邦を廃止して設置、オーストリア帝国が議長となる。 ロシア - フィンランド大公国を承認、皇帝はポーランド立憲王国の国王を兼任。オスマン帝国からベッサラビアを獲得。 スウェーデン - フィンランドをロシアに割譲する代償に、ノルウェーと同君連合を組む。 ポーランド - ワルシャワ公国を廃止、大部分をポーランド立憲王国の領土とし、ロマノフ朝のロシア皇帝がポーランド王を兼任する。 スイス - 永世中立国となる。 オランダ - ベルギー地方を併合し、立憲君主制となる。一部の植民地をイギリスに割譲。 ベルギー - オーストリアに代わりオランダが領有権を取得。その後1830年に独立、オランダと同じく立憲君主制をとる。
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