ウィーン包囲戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/23 05:05 UTC 版)
「第二次ウィーン包囲」の記事における「ウィーン包囲戦」の解説
1683年、ハプスブルク家領の北西ハンガリーでテケリらハンガリー人による反乱が起こり、反乱者たちはオスマン帝国に対して支援を要請した。これをスレイマン1世の第一次ウィーン包囲以来150年ぶりのオーストリア占領の好機と考えたカラ・ムスタファは、15万からなる大軍を率いてハンガリーからオーストリアに侵入、ウィーンに迫った。神聖ローマ皇帝レオポルト1世は7月7日にリュディガー・フォン・シュターレンベルクに守備を任せてウィーンを脱出、パッサウに逃れ、イスラム教徒からヨーロッパを防衛するよう訴えてキリスト教徒の諸侯に支援を要請した。 これに、当時オスマン帝国とポジーリャを巡って争っていたポーランド国王ヤン3世が応え、ヤン3世はポーランドとドイツ諸領邦からなる連合軍を率いて自らウィーンの救援に向かった。ロレーヌ公シャルル5世、バイエルン選帝侯マクシミリアン2世、ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク3世、バーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルム、ヴァルデック侯ゲオルク・フリードリヒ(英語版)らも救援軍に合流した。 オスマン軍は13日にウィーンに到達し完全に包囲、町の西部から城壁の突破をはかって攻撃を仕掛けた。しかし最新の築城法で要塞化されて第一次包囲の時代よりはるかに堅固になったウィーン市の防備を破ることができず、攻城戦は長期化した。遠方から進軍してきたため強力な攻城砲を搬入できなかったオスマン軍は、地下から坑道を掘って城壁を爆破する作戦もとったが失敗に終わった。一方、防衛側のウィーン守備軍は士気が盛んでたびたび要塞から打って出てオスマン軍を攻撃したが、包囲軍に対してほとんど損害を与えることはできなかった。
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