バルカン半島へ侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/03 09:51 UTC 版)
遠征軍はレオポルト1世の義弟でウィーン包囲戦で功績を挙げたロレーヌ公シャルル5世を総大将に選出、ウィーンからドナウ川沿いを東に進んでハンガリーへ侵攻する方針を固めた。遠征に際してヨーロッパ諸国から援助と人員が派遣され、十字軍の様相を呈していった。 参加者はイングランド王ジェームズ2世の庶子ジェームズ・フィッツジェームズ、フランスからヴィラール、ドイツからバイエルン選帝侯マクシミリアン2世、バーデン=バーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルム、プリンツ・オイゲン、カレンベルク侯エルンスト・アウグスト・ゲオルク・ルートヴィヒ父子などが加わった。但し、ルイ14世はハプスブルク家の勢いを弱める目的でオスマン帝国と親交を結んでいたため、援助はしていない。 遠征軍はまずブダを包囲したが落とせず、隣のペストを落としただけに終わった。しかし翌1685年にノイホイゼルを占拠してからは順調に進み、1686年にブダを奪還、ハンガリーの大半を手に入れた。1687年にドナウ川を南下してモハーチの戦いでオスマン軍に勝利、トランシルヴァニアにも進出した。アパフィ・ミハーイ1世は協定を結びトランシルヴァニアは実質上ハプスブルク家が領有、テケリは抵抗を続けたが味方の大半がオーストリアに寝返ったため没落、以後はオスマン帝国の援助を受けながら蜂起を繰り返していった。 この間、ヴェネツィアはアドリア海に艦隊を派遣してダルマチア・ボスニアを襲撃、1685年にギリシャに進み1687年にペロポネソス半島を占領した(戦闘中にアテネのパルテノン神殿爆破事件が発生)。1686年に至りロシアが神聖同盟に加盟し、ツァーリのイヴァン5世・ピョートル1世兄弟の姉で摂政ソフィアが重臣のヴァシーリー・ゴリツィンが率いるロシア軍を黒海に派遣、1687年と1689年の2度に渡りクリミア・ハン国に遠征したが、いずれも失敗した為、ソフィアとゴリツィンが失脚して、ピョートル1世の母ナターリヤらの一族に委ねられた。 1688年に遠征軍はバルカン半島に進軍、セルビアの都市ベオグラードも陥落させた。同年にルイ14世がドイツのライン川流域・南ネーデルラント(ベルギー)、イタリアに進軍して大同盟戦争が勃発、シャルル5世・マクシミリアン2世・オイゲンらがライン川、イタリアに派遣され、残されたルートヴィヒ・ヴィルヘルムが司令官としてハンガリー方面を受け持ち1689年にピテシュティを占拠した。オスマン帝国も対策を取り、1687年にスルタン・メフメト4世が廃位され弟のスレイマン2世が擁立、1688年に遠征軍に呼応したチプロフツィの反乱を鎮圧、1689年に大宰相に任命されたキョプリュリュ・ムスタファ・パシャが反撃して1690年にベオグラードを奪還、ドナウ川戦線を立て直した。 だが、1691年にルートヴィヒ・ヴィルヘルムがスランカメンの戦いでムスタファ・パシャを討ち取り、同年にルートヴィヒ・ヴィルヘルムもドイツに転属させられ、オスマン帝国もスレイマン2世が亡くなり弟のアフメト2世が即位したため戦線は停滞した。一方、ロシアでは親政を始めたピョートル1世がアゾフ方面へアゾフ遠征(ロシア語版、英語版)を行い、1695年の遠征は失敗したが、翌1696年の再遠征で奪取して黒海に前進した。1696年にドナウ川方面司令官はザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世が就任したが苦戦続きで、1697年にイタリア方面から戻ったオイゲンに交代、1696年に死去したヤン3世の後釜としてポーランド王選挙に立候補、オーストリア・ロシアの支援でポーランド王に即位した(アウグスト2世)。 1695年にアフメト2世が死去、甥のムスタファ2世が後を継ぐと北上してハンガリーへ向かったが、オイゲンはドナウ川を渡る途中のオスマン軍に奇襲、ゼンタの戦いで大勝利を挙げた。この勝利から和平交渉が進められ、1698年にポーランド軍もピドハイツィの戦い(ポーランド語版、ウクライナ語版、ロシア語版、英語版)でクリミア・ハン国に勝利、翌1699年にカルロヴィッツ条約を締結した。
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