バルカン半島の紛争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:07 UTC 版)
「第一次世界大戦」の記事における「バルカン半島の紛争」の解説
オーストリア=ハンガリー帝国は、1878年にオスマン帝国領だったボスニア・ヘルツェゴヴィナを占領したが、1908年にそれを正式に併合して、1908年から1909年にかけてのボスニア危機を引き起こした。これはセルビア王国とその後援国で汎スラヴ主義を支持していたロシア帝国を激怒させた。バルカンでの平和合意は既に揺らいでおり、さらにロシアの政治活動もあってバルカンは「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるに至った。1912年から1913年にかけて、バルカン同盟と徐々に解体していったオスマン帝国の間で第一次バルカン戦争が勃発。その講和条約であるロンドン条約ではアルバニア公国が独立した一方、ブルガリア王国、セルビア王国、モンテネグロ王国、ギリシャ王国は領土を拡大した。1913年6月16日にブルガリアがセルビアとギリシャを攻撃して第二次バルカン戦争が起き、この33日間の戦争ではブルガリアが大敗。マケドニアの大半をセルビアとギリシャに、南ドブルジャ(英語版)をルーマニア王国に割譲せざるをえず、バルカンが更に不安定になった。列強はこの時は紛争をバルカン半島内に抑えることに成功したが、次の紛争はヨーロッパ全体に飛び火し、戦火はやがて全世界を巻き込んだ。
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