ボスニア‐ヘルツェゴビナ【Bosnia and Herzegovina】
ボスニア・ヘルツェゴビナ
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 18:48 UTC 版)
「パルチザン (ユーゴスラビア)」の記事における「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ」の解説
1942年初期までは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのパルティザンの大部分はセルビア人のみであり、チェトニクとも協力関係にあった。ヘルツェゴヴィナ東部およびボスニア西部のパルティザンの一部はボシュニャク人(ムスリム人)の加入を拒否していた。ボスニアのムスリムたちにとって、こうしたパルティザンの言動はチェトニクのそれと大きく変わらないと映っていた。しかし、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの一部の地域では初期の段階からクロアチア人やムスリムがパルティザンに加わっており、ボスニア北西部のコザラ山(Kozara)やサラエヴォ近くのロマニヤ地方ではこうした傾向が見られた。コザラでは、1941年末の時点で兵士の25%がクロアチア人やボシュニャク人であった。 1943年後期の時点で、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのパルティザンの70%はセルビア人、30%がクロアチア人およびボシュニャク人であった戦争の期間全体を通してのボスニア・ヘルツェゴヴィナのパルティザンのうち、64.1&はセルビア人、23%はボシュニャク人、8.8%はクロアチア人であった。なおセルビアパルチザンは親ソ連と共産主義に加えて民族主義が強い傾向にある。
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