ボスニア・ヘルツェゴビナ文学とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ボスニア・ヘルツェゴビナ文学の意味・解説 

ボスニア・ヘルツェゴビナ文学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/13 03:04 UTC 版)

ボスニア・ヘルツェゴビナ文学(ボスニア ヘルツェゴビナぶんがく、ボスニア語:Bosanskohercegovačka književnost)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの作家やボスニア・ヘルツェゴビナにルーツを持つ作家による文芸作品および文学研究を指す。バルカン半島に位置するボスニア・ヘルツェゴビナの文化は、南スラヴ人の文化、キリスト教文化、イスラーム文化、ユダヤ文化が重なり合って形成されている。多様性は言語にも表れており、歴史的にはボスニア語セルビア・クロアチア語をはじめとしてトルコ語アラビア語ペルシア語の作品があり、近年では英語やドイツ語でも執筆されている。書き言葉においてはキリル文字アラビア文字ラテン文字が使われてきた。本項目では、歴史的に密接な関係があるセルビアクロアチアツルナ・ゴーラの作家や作品についても言及する。

さまざまな民族や宗教に加えて政治の変遷も影響を及ぼし、時代によって作家の姿勢や作品への賛否も変化している。20世紀以降は多民族国家ユーゴスラヴィアとしての価値観と、ユーゴスラヴィア崩壊の体験や社会の変化、その後の人生が重要なテーマとなっている。

歴史

修道士ディヴコヴィチによる『スラヴ民族のためのキリスト教教理』

ボスニア・ヘルツェゴビナ文学の歴史には複数の流れがあり、中世から近代にかけてはフランチェスコ会英語版イスラームギリシャ正教の影響下で創作が進められた[1]

中世

中世ではローマ・カトリックの影響下にあり、12世紀から世襲の統治者である総督が治め、総督領からボスニア王国に改編された。他の宗教としてギリシャ正教ボスニア教会があった[2]ステチュツィと呼ばれる彫刻をした石の墓碑が多数作られ、ボスニア教会の信者を中心としてカトリック教徒や正教徒も埋葬された[3]。13世紀にはフランチェスコ会がボスニアで活動を始め、ボスニア出身のフランチェスコ会修道士マティヤ・ディヴコヴィチボスニア語版は民衆に語りかけるために地元のシュト方言を使い、聖職者向けの本として『スラヴ民族のためのキリスト教教理』(1611年)をヴェネツィア共和国で印刷した。5年後には民衆向けの教理集も発行され、ボスニア・ヘルツェゴビナだけでなくダルマツィアでも読まれた。これらの書物によってディヴコヴィチはボスニア文学の祖とも呼ばれている[4]

オスマン帝国

オスマン帝国は15世紀から400年にわたってボスニア・ヘルツェゴビナを統治した[5]。この時代にボスニア・ヘルツェゴビナにイスラーム文化が伝わった[6]。きっかけとなったコソヴォの戦いでキリスト教徒の軍はオスマン帝国に敗北し、以後はオスマン帝国がバルカン半島に進出を続けた。この戦いがもとで、南スラヴ諸民族の間では英雄叙事詩が作られるようになった[注釈 1][8]。また、イベリア半島のレコンキスタによって追放されたユダヤ教徒の中にはオスマン帝国に逃れる者がいて、サラエヴォに移住したユダヤ教徒もいた。細密画が描かれた中世ヘブライ語で最古の写本の一つである『サラエヴォ・ハガダー』は、イベリア半島から来たユダヤ教徒が持ち込んだとされる[9]

オスマン帝国のエリートは、オスマン語アラビア語、ペルシア語の3言語に通じていることが賞賛された[注釈 2][11]。イスラーム文化の影響を受けたボスニア・ヘルツェゴビナでも3言語で創作が行われ、17世紀にはアラビア文字で表記するボスニア語も使われた[6]。17世紀の旅行家エヴリヤ・チェレビーは、サラエヴォの住民がボスニア語、トルコ語、セルビア語、ラテン語、クロアチア語、ブルガリア語を話すと記録している[9]。ギリシャ正教においては、ボスニア南部出身のニチフォル・ドゥチッチがセルビアとフランスで教育を受け、修道院についての著述を残した。また、ツルナ・ゴーラの主教でもあったペタル二世ペトロビッチ=ニェゴシュボスニア語版の作品を見出した[12]

ハプスブルク帝国

露土戦争を終結させるためのベルリン会議(1878年)によって、ヨーロッパ諸国から委任されたハプスブルク帝国がボスニア・ヘルツェゴビナを統治した[注釈 3][14]。バルカン半島でキリスト教が優勢な地域はイスラーム文化が目立たなくなっていったが、イスラームが優勢だったボスニア・ヘルツェゴビナでは独自の文化が保持された[注釈 4][16]

委任統治時代には、ボスニア語を公用語とする最初の政策が試みられた。ハプスブルク帝国の公用語のドイツ語とマジャール語は、領地ではないボスニア・ヘルツェゴビナには強制できず、オスマン語も使用できないため、ボスニア語が選ばれた。しかしその名称や政策は支持を得られず、ボスニア語はセルビア・クロアチア語と呼ばれることになった[注釈 5][18]。オスマン統治下での住民は宗教によって分けられていたが、ハプスブルク統治下では民族化が進み、正教徒はセルビア人、カトリック教徒はクロアチア人としての帰属意識を持つようになった。セルビア人とクロアチア人の政治的な発言が高まる中で、ボスニア・ヘルツェゴビナのムスリムは国家の構成民族として認められず、政治的に弱い立場に置かれた。この傾向は第二次世界大戦後まで続いた[19]。他方で民族の言語が同一であるという認識も広まり、ウィーン文語協定英語版(1850年)をきっかけとしてセルビア人、クロアチア人、ボスニア・ヘルツェゴビナのムスリム、ツルナ・ゴーラ人は標準語の共有が進んだ[20]。ボスニア・ヘルツェゴビナではアイデンティティの探求や独立がテーマとなり、別個の背景をもつ伝統が合流して文化サークルが形成され、雑誌の創刊が相次いだ[21]

ユーゴスラヴィア王国、ユーゴスラヴィア連邦

第一次世界大戦後のボスニア・ヘルツェゴビナはユーゴスラヴィア王国の領土となり、南スラヴの文化的統一を目的とした文芸が盛んになった。第二次世界大戦後はユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国の構成国ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国となり、パルチザンをテーマとする作品が増えた[22]。ユーゴスラヴィア連邦では、それまで法的な構成民族ではなかったムスリムがムスリム人として定義され、セルビア人やクロアチア人と同様に固有のエスニック・グループとして認められるようになった[23]。近代文学の作家らはボスニアの紙幣に肖像が用いられており、文学がボスニアのアイデンティティに与えた影響を表している[注釈 6][21]。1961年にはイヴォ・アンドリッチノーベル文学賞を受賞し、ユーゴスラヴィア文学の価値が国際的に認められた[注釈 7]。他方で、連邦を統合していたヨシップ・ブロズ・チトーが死去した1980年代から各共和国の民族主義者が対立を始め、ユーゴスラヴィア文化は形骸化していった[26]

連邦解体、独立

ユーゴスラビアの崩壊によって、ボスニア・ヘルツェゴビナはボシュニャク人(ムスリム人)、クロアチア人セルビア人の3つの民族主義者が対立してボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が起きた[27][28]。首都サラエヴォはセルビア人勢力による包囲攻撃を1992年から1996年まで受け、サラエヴォ包囲と呼ばれた[29]。包囲の最中もサラエヴォでは文化的な営みや創作が行われ、メインストリートの劇場では演劇も上演された[30]。ボシュニャク人とボスニア語は、紛争中の1994年にボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の憲法草案で明記された[31][32]

紛争はデイトン合意によって終結したが、国内の権力はボスニア・ヘルツェゴビナ連邦スルプスカ共和国に分権化した。移民や難民が増え、多数の作家が国外に去った。作品のテーマにはユーゴスラヴィア崩壊にまつわる体験、紛争の傷跡などが増え、移住先の土地の言語でも執筆が続けられている[注釈 8][35][36]

言語、地理

アンドリッチの小説『ドリナの橋』の題材となったソコルル・メフメト・パシャ橋

ボスニア・ヘルツェゴビナは、セルビアクロアチアツルナ・ゴーラと国境を接している[37]。周辺地域とは言語面で共通点をもち、ボスニア・ヘルツェゴビナの公用語はボスニア語セルビア語クロアチア語となっている。ボスニア語とはボシュニャク人(ムスリム人)が母語とする言語を指し、旧ユーゴスラヴィアで使われていたセルビア・クロアチア語が、連邦崩壊によってボスニア語、クロアチア語、セルビア語、ツルナ・ゴーラ語に分裂した経緯がある[注釈 9][31][32]。これらの言語は口語においてはほぼ同一で相互理解可能な言語だが、1990年代以降は相違点を強調する政策が進められている[20]。歴史的には、ボスニア語やセルビア・クロアチア語の他にトルコ語、ペルシア語、アラビア語でも創作が行われてきた[6]

書き言葉は、スラヴ人が国家を建設してから15世紀までは主にキリル文字が使われ、オスマン帝国時代になるとアラビア文字で表記するアレビツァ(アリャミヤド)も使われた。オスマン帝国末期からはセルビアからキリル文字の書籍が入り、ハプスブルク帝国時代にラテン文字とキリル文字が使われて正書法や言語政策が整備された[39]。独立後のボスニア語とクロアチア語はラテン文字で表記され、セルビア語はキリル文字で表記されている[40]。ボスニア語の正書法は、セルビア・クロアチア語とほぼ同一となる[31]

ユーゴスラヴィア連邦の縮図とも言われたボスニア ・ヘルツェゴビナは多民族社会であり、国名の由来となる民族がなく「ボスニア民族」は存在しない[41]。連邦時代は特定の民族に属さない人々を制度的・日常的に保障していた[注釈 10][37]。イスラーム、セルビア正教、カトリック、ユダヤ教など異なる宗教が日常的に交流・協同をしており、20世紀にいたるまでは宗教対立や宗教的迫害はほぼ起きなかった[42]。そのため複数の民族的なルーツを持つ作家も珍しくない[注釈 11][43]

しかしユーゴスラヴィア崩壊と紛争によって状況が変わった。紛争を終結させたデイトン合意にもとづくボスニア・ヘルツェゴビナ憲法では、ボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人の3民族が主要民族と定義され、多様性が切り捨てられた。さらに民族ごとに基盤となる地域が定められ、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦はボシュニャク人とクロアチア人、スルプスカ共和国はセルビア人の基盤となった。こうした分権化のために歴史認識の共有が困難になっている。ロマ英語版ユダヤ人英語版などのマイノリティに被選挙権を認めない差別もあり、EU加盟の障害になっている[36]。他方で民族を越えた市民運動やメディアも活動し、和解の試みが続けられている[44]

旧ユーゴスラヴィア時代の経済移民や1990年代の紛争が原因で国外へ出た人々は多い。政府保安省によれば、国外で暮らす人口は2018時点で約200万人となり全人口の56.6%にあたる[注釈 12][46]。国外での体験や望郷、そして故郷へ帰った時の心境などは、紛争以後の文芸作品のテーマにもなっている[47][48]

作品形式とテーマ

詩歌

イヴァナ・コビルツァ画「グスレを弾くボシュニャク人」。吟遊詩人によって叙事詩が謳われた

南スラヴの英雄叙事詩は、コソヴォの戦い以降のオスマン帝国の征服と統治の歴史に沿って各地で作られた。ボスニア・ヘルツェゴビナにおけるムスリムの英雄叙事詩もこの流れに含まれる。キリスト教徒側の叙事詩が敗北による死の悼みが中心となるのに対して、ムスリムの叙事詩は勝利や武勲が中心となっている[注釈 13][50]ボシュニャク人の叙事詩英語版の最古の記録は、16世紀のスロヴェニア人のベネディクト・クリペシッチボスニア語版の『旅行記』にあり、マルコシッチという人物の活躍を謳う詩について書かれている[注釈 14][52]アーシュクボスニア語版と呼ばれる吟遊詩人たちは叙事詩、山賊や義賊の歌、哀歌を詠った[53]。16世紀のムスリムの陣地では武勲詩の伝統があり、キリスト教徒の吟遊詩人も受け入れられてムスリムの聴衆のための叙事詩も歌った[注釈 15][54]。キリスト教徒の伝承に登場するマルコ・クラリェヴィチに相似する人物として、ムスリムの伝承に登場するアリヤ・ジェルゼレズボスニア語版がいる[55]。オスマン帝国時代のサラエヴォ出身の詩人では、ハサン・カイミヤボスニア語版がボスニア語とトルコ語を使い、デルヴィシュ・パシャ・バィエジダギッチボスニア語版はトルコ語とペルシア語を使った。フェヴズィヤ・モスタラツボスニア語版は、ペルシア語の散文詩『サヨナキドリの庭』を書いた[6]。記録に残るボスニア最古の女性詩人Umihana Čuvidinaは、オスマン帝国時代のサラエヴォ出身で詳しい生涯は知られていない。1813年に戦死した婚約者を悼む叙事詩をアラビア文字で詠っている[56][57]

記録にあるボスニア最古の女性作家Umihana Čuvidina

1780年代にはTurçija(トルコ歌謡)と呼ばれる歌が流行し、貴族の青年の宴会で歌われた。Turçijaはボスニアの上流社会ではセヴダリンカボスニア語版と呼ばれる恋歌・艶歌として発展した[注釈 16][58]。セヴダリンカという語は、トルコ語で愛を意味するセヴダ(sevda)が土着の言葉となって定着したもので「愛の歌」を意味する[注釈 17][16]。セヴダリンカは19世紀から20世紀前半のロマン主義のもとで多く創作され、セヴダリンカを盛り立てた詩人としてセルビア系詩人アレクサ・シャンティチボスニア語版がいる[59]。シャンティチは愛、社会、愛国心などをテーマとして、近所のムスリムの少女を詠った『エミナボスニア語版』が特に人気を呼んだ[21]。セヴダリンカはポピュラー音楽となり、1970年代を頂点としてユーゴスラヴィアで人気を集め、ムスリムの多いボスニア・ヘルツェゴビナが中心となった[60]

ヨヴァン・ドゥチッチボスニア語版モスタルで教師をしながら詩作を続け、1915年にはイギリスの雑誌『ニュー・エイジ』に英訳も掲載された。セルビアの外交官としても働いたが、ナチス・ドイツのユーゴスラビア侵攻が起きてアメリカへ亡命し、客死している[61]マック・ディズダルボスニア語版は中世ボスニアのムスリムへの関心を結実させた詩集『石の眠り人』(1968年)を発表した。本作品では中世の墓碑であるステチュツィが舞台となり、詩人が墓碑の下で眠るボスニア教会の信者や異端狩りと対話を繰り広げる[62]

小説

イヴォ・アンドリッチ
アレクサンダル・ヘモン
サーシャ・スタニシチ

イヴォ・アンドリッチはユーゴスラヴィア王国の外務省で働きながら文筆活動を行い、ナチス・ドイツ占領下のベオグラードで長編を完成させ、1945年に『ドリナの橋』『ボスニア物語』『サラエヴォの女』を相次いで発表した[63]。『ドリナの橋』は、ドリナ川にかかるソコルル・メフメト・パシャ橋を舞台に歴史の移り変わりを描いた。オスマン帝国時代のボスニアで徴用されて宰相となったソコルル・メフメト・パシャが橋の建設を命じ、さまざまな出来事が橋によって生み出される。工事に駆り出されて苦労する住民、工事の妨害をして処刑されるキリスト教徒、婚礼の日に橋から身投げする少女、洪水で助け合うムスリム・正教徒・ユダヤ教徒などが登場し、第一次世界大戦によって橋は爆破される[64]。2つの世界大戦を通じて創作を続けたアンドリッチはノーベル文学賞を受賞し、多民族国家ユーゴスラヴィアの文学を象徴する作家となった[注釈 18][39]

メシャ・セリモヴィッチボスニア語版は『修道師と死ボスニア語版』(1966年)でオスマン帝国時代のスーフィーの導師を主人公として、ボスニアの錯綜した状況と細やかな心理描写を一人称で語った。家族を助けて世俗に戻るか、神の秩序に従って家族を見捨てるかの選択に迫られる主人公の物語は反響を呼んだ[66]。セリモヴィッチの作品が発表された時代は、多民族国家としてのユーゴスラヴィアがムスリムの存在を認める途上にあり、イスラーム文化と西欧文化の交差が描かれている[67]

ジェヴァド・カラハサンボスニア語版はサラエヴォとグラーツで執筆や演劇の活動を行い、作品はドイツ語を中心にヨーロッパで翻訳されている。カラハサンの『1993年の手紙』(1996年)は、アンドリッチの『1920年の手紙』(1920年)をもとにしており、アンドリッチが「憎悪」をキーワードにボスニアを表現したのに対して対話や信頼によるボスニアを描いている。ユーゴスラヴィア紛争時代を舞台として、アンドリッチの小説の登場人物を使いながら、アンドリッチとは異なる多様な価値観を体現させた[68][69]。旧ユーゴスラヴィア時代出身のカラハサンにとってボスニアは多様性と共生であり、紛争によって破壊された価値観を描いている[70]

紛争のために国外で暮らす人々によっても創作が続けられている。ジャーナリストでもあるミリェンコ・イェルゴヴィッチボスニア語版ザグレブに暮らし、短編集『サラエヴォ・マールボロ』(1994年)では紛争によって変化する日常を淡々とした筆致で記した[71]。『胡桃の館』(2003年)は2001年で始まり1878年で終わる構成をとり、ドゥブロブニクの一家と3つの戦争を描いている[72]アレクサンダル・ヘモンはシカゴ滞在時に紛争が起きてサラエヴォに帰れなくなり、さまざま仕事で暮らしながら英語で執筆をした。『ノーホエア・マン』(2002年)や『ラザルス計画英語版』(2008年)では、アメリカ移民として母語ではない英語を使う困難や、紛争による母語の分裂が語られ、ボスニアが失われた故郷として登場する[47][35]サーシャ・スタニシチボスニア語版は14歳でドイツに移住してドイツ語で執筆しており、ボスニアを再訪する自伝的作品『兵士はどうやってグラモフォンを修理するか』(2006年)を発表した。主人公が少年だった紛争時代の暮らしや、親族の思い出が語られたあと、帰郷によって語り手の記憶は打ち砕かれる[48]

年代記、ノンフィクション

最初のボスニアの歴史書は、修道士フィリプ・ラストリッチの『ボスニア地方の古代の概説』(1765年)だった[4]。サラエヴォの年代記作者ムラ・ムスタファ・バシェスキヤボスニア語版は18世紀から19世紀のサラエヴォについて記述し、貴重な記録となっている。バシェスキヤは当時のサラエヴォで話されていたトルコ語で執筆しており、流行した詩歌や楽器についても言及がある[58]

幼少期をサラエヴォ包囲の中で生活したヤスミンコ・ハリロビッチは、同じく包囲中に子供だった人々にEメールで体験を募集し、『ぼくたちは戦場で育った 』として書籍化した。ハリロビッチは子ども戦争博物館の館長を務め、サラエヴォをテーマとしたブログが書籍化されている[73]。その他にもサラエヴォ包囲で少女時代をすごしたズラータ・フィリポヴィッチボスニア語版の日記をまとめた『ズラータの日記ボスニア語版』などノンフィクションが出版されている[74]

評論

オスマン帝国時代のフランシスコ会に属した作家のイヴァン・フラニョ・ユキッチボスニア語版は『ボスニアの地理と歴史』(1851年)でボスニアの地理・歴史・宗教についてまとめ、ムスリムであるトルコ人が権力者でキリスト教徒は奴隷であると論じ、オスマン政府によってボスニアから追放された[注釈 19][76]

ハプスブルク帝国時代には、宗教を越えてボスニア人としての帰属意識を持つためのボスニア主義の政策が進められた[19]。伝統的なイスラームの教育とハプスブルク帝国の教育をともに受けたムスリムの知識人は、ボスニア初のムスリム系文芸誌『べハールボスニア語版』(1900年)や『ビセル英語版』(1912年)で活動をした。『べハール』はオスマン帝国とハプスブルク帝国がボスニア領有をめぐって対立中の時期に創刊された。それまでのボスニア・ヘルツェゴビナでは民族言語によるムスリムの文芸活動がなく、『べハール』は文芸を通したムスリムの精神的進歩を理念とした。イスラームへの理解を深めるためにボスニア語の口語を中心に掲載しつつ、トルコ語やアラビア語の詩や小説の翻訳も行った[77]。『ビセル』はハプスブルク帝国がボスニアを領有した時期に創刊された[78]。『べハール』の編集にも参加したムサ・チャズィム・チャティチボスニア語版が手掛けた雑誌で、ボスニアのムスリムの統一を目指しつつ、セルビア人やクロアチア人との調和を論じた[79][21]。サフベト・ベグ・バシャギチは『オグレダロ』(1907年)という機関紙を発行してボスニア主義にもとづく論説を書いた[19]

ユーゴスラヴィア連邦の文化は多文化主義的といわれたが、1960年代からユーゴスラヴィア文化への批判が存在した。当初はスロヴェニア人やクロアチア人、ボスニアのムスリムらによる批判があり、理想に対する疑問や自己規定の難しさが語られた[注釈 20][26]。アンドリッチ作品への批判も1960年代から始まり、移民のための雑誌『ボサンスキ・ポグレディボスニア語版』の記事は『ドリナの橋』や『ボスニア物語』でムスリムが否定的に扱われていると批判した[注釈 21][81]。ユーゴスラヴィア崩壊と各共和国の独立にともない、国民的作家だったアンドリッチの評価は変化し、各勢力によってアンドリッチは非難や賞賛の対象として利用された[82]。紛争が始まると、ザグレブの書店でアンドリッチは外国文学の棚に置かれ、セルビア側の政治家ラドヴァン・カラジッチはアンドリッチの短編『1920年の手紙』を紛争の正当化に使った[注釈 22][82]。英雄叙事詩の人物を題材としたアンドリッチの『アリヤ・ジェルゼレズの旅』(1920年)は、ムスリムの描写が差別的だとして批判された。ボスニア・ヘルツェゴビナで予定されていたアンドリッチの生誕100年祭は中止となり、教科書からアンドリッチの作品が削除された[注釈 23][84]。アンドリッチの評価については紛争後も論争が続いている[85]

出版、図書館

紛争で破壊されたサラエヴォ国立図書館。チェロを演奏するのはヴェドラン・スマイロヴィッチボスニア語版

出版

ボスニア語の印刷物が誕生したのは印刷・出版が盛んだったヴェネツィア共和国であり、ミラノ公国ラグーザ共和国の人々の貢献もあった[注釈 24]。初のボスニア語の印刷物は祈祷書『聖母マリアの祈り』(1511年)だった。当時のボスニア語はキリル文字で書かれており、ボスニア・キリル文字ボスニア語版と呼ばれた。ボスニア・キリル文字のアルファベット表を初めて印刷してラテン語に音訳したのはパリのギヨーム・ポステルで、3冊目のボスニア語の祈祷書はミラノの印刷者ジョルジオ・ルスコーニが手がけている。これらは全てヴェネツィアで印刷され、祈祷書の監修はラグーザのフラニョ・ミカロヴィッチ・ラトコヴィッチが行った。ヴェネツィアにおけるボスニア語のキリル文字出版はマティヤ・ディヴコヴィチの著作で全盛期を迎え、1716年まで続いた[注釈 25][90]

ボスニア・ヘルツェゴビナ初の文芸誌は、クロアチア王国のザグレブで1850年に出版された『ボスニアの友』だった。イヴァン・フラニョ・ユキッチがリュデヴィト・ガイ英語版の援助を受けて刊行した雑誌で、4巻本の百科事典的な内容となった[91]。ハプスブルク領となった後の1885年に創刊された文芸誌『ボスニアの妖精ボスニア語版』は、民族主義とは異なる南スラヴの統一を目標とした。この雑誌の呼びかけに応じて南スラヴ各地の作家が参加し、イヴォ・アンドリッチも最初の作品を発表している[12]。他にも『希望』(1895年)や『あけぼの』(1896年)などの文芸誌が創刊された。『あけぼの』は1896年にアレクサ・シャンティチ、スヴェトザル・チョロヴィチボスニア語版、ヨヴァン・ドゥチッチらによって創刊され、ボスニア近代文学の中心となった[39][21]。ハプスブルク帝国時代のムスリムの知識人はムスリム系文芸誌の『べハール』や『ビセル』を発行し、寄稿者たちは各地で講演会を開催した[92]。第一次世界大戦後に建国されたユーゴスラヴィア王国では、文芸誌『プレグレド』が創刊されて文学的風土に影響を与えた[39]。ボスニア・ヘルツェゴビナで伝承されていた叙事詩は、民俗学者でサラエヴォ郷土博物館館長のコスタ・ヘルマンクロアチア語版(1850-1921)が中心となって75篇を編纂し、郷土博物館で出版された[51]

ユーゴスラヴィア連邦の時代には共和国で文字使用の平等化が進められ、ラテン文字とキリル文字は新聞紙や教科書で同等に扱われた[注釈 26][20]。紛争後は政府の分権化と各言語の独自化の試みが進められたため、各共和国の知識人を中心として「共通言語に関する宣言」(2017年)が出され、多極的な共通言語を持つための呼びかけが行われた[93]

図書館

ボスニア最古の由来を持つガーズィ・ヒュスレヴ・ベイ図書館。国立図書館とともに2014年に新たに開館した

ボスニア最古の図書館として、オスマン帝国時代の1537年に設立されたガーズィ・ヒュスレヴ・ベイ図書館ボスニア語版がある[94]。ボスニア県知事のガーズィ・ヒュスレヴ・ベイボスニア語版ワクフ制度によってメドレセと併設の図書館を建設したことに発祥する[注釈 27][96][97]。1888年にはサラエヴォでワクフによって読書施設のキラエタナ(Kiraethana)が設立され、各都市に広まった。ムスリムが発行する文芸誌はキラエタナにも置かれるようになった[92]。1950年にサラエヴォ東方研究所ボスニア語版が設立され、バルカン半島におけるイスラーム史・オスマン帝国史の研究の中心地となった[98]。東方研究所には11世紀以降のボスニア語、アラビア語、トルコ語、ペルシア語の手稿史料、20万点以上のオスマン帝国関連史料、図書や定期刊行物が所蔵された[99]

サラエヴォ国立図書館ボスニア語版は、1992年8月にセルビア人武装勢力の攻撃を受けて200万点の資料が焼失した[100]。サラエヴォ東方研究所は99%の資料が焼失し、5263点の写本が失われた[101]。モスタル東部のヘルツェゴビナ図書館でも10%の文書が損失した[注釈 28][99]。東方研究所の焼失を受けて、ガーズィ・ヒュスレヴ・ベイ図書館では写本史料を8箇所に分けて保管した。公刊物はツァレヴァ・モスクボスニア語版へ移し、貴重な500点の写本は銀行の金庫へ運び、ほぼ全ての史料が無事だった[94][103]。その後、国立図書館やガーズィ・ヒュスレヴ・ベイ図書館は修復されて2014年に再開した[100]。近代化されたガーズィ・ヒュスレヴ・ベイ図書館はバルカン地域で最大級の図書館の1つで、収蔵資料は約10万点あり、そのうち10,050点以上が写本資料で内容はイスラーム科学イスラーム哲学アラビア数学、歴史、薬学、文学、天文学などがある[96]

主な著作家

以下の一覧は、上畑 (2019)、奥 (2019)、栗原 (2001)、三谷 (2013)、米岡 (2009)を主に参照して作成。

  • マティヤ・ディヴコヴィチボスニア語版(1563年-1631年)
  • デルヴィシュ・パシャ・バィエジダギッチボスニア語版(生年不明-1603年)
  • ハサン・カイミヤボスニア語版(1625年-1691年)
  • ムラ・ムスタファ・バシェスキヤボスニア語版(1731年-1809年)
  • シーマ・ミルティノビッチボスニア語版(1791年-1847年)
  • フェヴズィヤ・モスタラツボスニア語版(1794年-1870年) - 『サヨナキドリの庭』
  • Umihana Čuvidina(1794年-1870年)
  • イヴァン・フラニョ・ユキッチボスニア語版(1818年-1857年)
  • アレクサ・シャンティチボスニア語版(1868年-1924年)
  • ヨヴァン・ドゥチッチボスニア語版(1872年-1943年)
  • スヴェトザル・チョロヴィチボスニア語版(1875年-1919年)
  • イヴォ・アンドリッチ(1892年-1975年) - 『ドリナの橋』『ボスニア物語』『サラエヴォの女』(1945年)
  • メシャ・セリモヴィッチボスニア語版(1910年-1982年) - 『修道師と死』(1966年)
  • フェイズラフ・ハジバイリッチ(1913年-1990年)
  • マック・ディズダルボスニア語版(1917年-1971年) - 『石の眠り人』(1968年)
  • ジェヴァド・カラハサンボスニア語版(1953年-2023年) - 『1993年の手紙』
  • アレクサンダル・ヘモン(1964年-) - 『ノーホエア・マン』(2002年)
  • ミリェンコ・イェルゴヴィッチボスニア語版(1966年-) - 『サラエヴォ・マールボロ』(1994年)
  • Aleksandra Čvorović(1976年-)
  • サーシャ・スタニシチボスニア語版(1978年-)- 『兵士はどうやってグラモフォンを修理するか』(2006年)
  • レイラ・カラムイッチ(1980年-)

脚注

注釈

  1. ^ 諸民族とは、ボスニア、ヘルツェゴビナ、ツルナ・ゴーラ、ブルガリア、ダルマツィア、クロアチア、セルビアを指す[7]
  2. ^ 宗教寄進文書や学術ではアラビア語が主に使われ、財政文書や文芸ではペルシャ語が主に使われていた[10]
  3. ^ オスマン帝国はクリミア戦争でロシア帝国と戦う際にイギリスとフランスの助力を借り、その影響で両国の干渉が増大した。1875年には国家財政が破綻し、ヘルツェゴビナでは困窮を理由とした農民蜂起が起きた。さらにベルリン会議で、ボスニア・ヘルツェゴビナは宗主権をオスマン帝国に残したままハプスブルク帝国に統治されることが決まった[13]
  4. ^ 帝国領土内では移住が進み、ハルィチナーからのウクライナ系の移民もいた。ウクライナ系住民は民族的帰属意識をもちウクライナ語の使用も維持している。作家のアレクサンデル・ヘモンはウクライナ系にあたる[15]
  5. ^ 公用語名は、クロアチア語、地方語、ボスニア地方語、ボスニア語をへてセルビア・クロアチア語となった[17]
  6. ^ 紙幣に使われた作家として、イヴォ・アンドリッチ、アレクサ・シャンティチ、ヨヴァン・ドゥチッチ、メシャ・セリモヴィッチ、マック・ディズダルらがいる[24]
  7. ^ 国内外で最も評価が高いユーゴスラヴィア連邦時代の芸術としては、ザグレブ派クロアチア語版と呼ばれるアニメーションがある。クロアチアのザクレブ・フィルムクロアチア語版で製作された作品群を指す[25]
  8. ^ 紛争については映画でも表現されており、戦場の不条理については『ノー・マンズ・ランド』(2001年)、戦時性暴力をめぐっては『サラエボの花』(2006年)、戦時生活については『ボスニア語版』(2008年)などが作られている[33][34]
  9. ^ 発音や語彙の違いはあり、セルビアのエ方言とボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、ツルナ・ゴーラのイェ方言では異なっている[38]
  10. ^ 紛争前の1991年の国勢調査ではムスリム人(ボシュニャク人)43.5%、ギリシャ正教徒のセルビア人31.2%、カトリック教徒のクロアチア人17.4%となり、残り8%の大半は特定の民族に属さない「ユーゴスラヴィア人」や、帰属民族を申告しない人々だった[37]
  11. ^ たとえばセルビアの作家ブラニスラヴ・ヌシッチは母方がボスニアのブルチコ出身であり、ユーゴスラヴィア王国時代にはサラエヴォ国立劇場の支配人を務めた[43]
  12. ^ 世界銀行の統計によれば、国外からの送金は2016年時点でGDPの12.5%を占め、国内経済にとって重要な収入となっている[45]
  13. ^ 旧ユーゴスラヴィアの構成民族は、スロヴァニア人をのぞいて自らの英雄叙事詩を作っており、独自の特徴・英雄・主題をもつ。たとえばセルビアの英雄叙事詩はコソヴォの戦いによる英雄の死、勲功、家族の女性たちなどが歌われて死を悼む。『プリイェズダ侯の死』『カイツァ侯の死』『ラザル王とミリツァ王妃』『コソヴォの乙女』『ユーゴヴィチ兄弟の母の死』などの作品がある[49]
  14. ^ クリペシッチはハンガリー・クロアチア王国フェルディナント1世の使節団のラテン語通訳だった。『旅行記』は最古のバルカン半島の紀行にあたる[51]
  15. ^ 16世紀のハンガリーの詩人ティノディ(Tinódi Lantos Sebestyén)の記録による[54]
  16. ^ セヴダリンカには宴会における退廃的な面でも使われた[58]
  17. ^ セヴダは、古代ギリシアのメランコリーの概念を起源とする[16]
  18. ^ サラエヴォ出身の映画監督エミール・クストリッツァは、2014年にアンドリッチを記念するテーマパークアンドリッチグラード英語版を創設した[65]
  19. ^ ボスニア ・ヘルツェゴビナの支配階層のムスリムをトルコ人と呼ぶ場合があり、民話においてもそのようなトルコ人が登場する[75]
  20. ^ このテーマの作品として、セリモヴィッチの『修道師と死』(1966年)や、クロアチアのミロスラヴ・クルレジャの『いくつもの旗』(1962年-1968年)などがある[26]
  21. ^ 『ボサンスキ・ポグレディ』でアンドリッチを批判したシュクリヤ・クルトヴィチはムスリムの政治家・評論家だった[80]
  22. ^ アンドリッチの故郷ヴィシェグラードでは、1992年のセルビア人勢力による虐殺でムスリムは皆無となった。1995年にヴィシェグラードで『ドリナの橋』刊行50年とアンドリッチ没後20年の記念イベントが行われ、カラジッチも出席した[83]
  23. ^ 『アリヤ・ジェルゼレズの旅』を全面的に批判した論述として、サラエヴォ大学教授の文学者ムフシン・リスヴィチの『アンドリッチの世界に見るボスニアのムスリム』(1995年)がある[84]
  24. ^ ヴェネツィアは1469年に活版印刷が伝わってから出版が盛んに行われた。15世紀末までにヨーロッパの全書籍の15%を印刷し、16世紀には690の印刷所や出版社が15,000点以上を出版した[86]
  25. ^ ヴェネツィアはクロアチア語やセルビア語の出版も行った[87]。オスマン帝国に征服されたセルビアに代わってキリスト教系の書籍を印刷し、セルビア人に向けた正教徒の祈祷書を出版する中心地となった[88]。ヴェネツィアで初めて印刷されたクロアチアの書籍は、ゲオルギウス・シスゴレウスのラテン語詩集だった[89]
  26. ^ 主要新聞紙の『オスロボジェーニェボスニア語版』の一面はラテン文字とキリル文字が日替わりで掲載され、ページごとに両文字が交代で使われた。教科書では両文字が章ごとに交代したり、学年ごとに両文字が交代した[20]
  27. ^ ヒュスレヴ・ベイはボスニア県知事に3回赴任し、ワクフの運用でサラエヴォの都市建設を盛んに行った功績をもつ[95]
  28. ^ この焼失については、イェルゴヴィッチが『サラエヴォ・マールボロ』で怒りを込めて書いている[102]

出典

  1. ^ 奥 2019a, pp. 271–273.
  2. ^ 唐澤 2019a, pp. 36–37.
  3. ^ 唐澤 2019b, pp. 41–43.
  4. ^ a b 奥 2019a, p. 271.
  5. ^ 江川 2019, p. 44.
  6. ^ a b c d 奥 2019a, p. 272.
  7. ^ 栗原 2001, p. 28.
  8. ^ 栗原 2001, p. 27.
  9. ^ a b 江川 2019, p. 46.
  10. ^ 鈴木 1994, pp. 83–84.
  11. ^ 鈴木 1994, pp. 83–85.
  12. ^ a b 奥 2019a, p. 273.
  13. ^ 江川 2019, pp. 48–49.
  14. ^ 村上 2019, p. 54.
  15. ^ 三谷 2015, pp. 3–5.
  16. ^ a b c 上畑 2019, p. 302.
  17. ^ 齋藤 2001, pp. 120–121.
  18. ^ 齋藤 2001, pp. 120–122.
  19. ^ a b c 米岡 2024, pp. 98–100.
  20. ^ a b c d 山崎 2019b, p. 268.
  21. ^ a b c d e 奥 2019a, pp. 273–275.
  22. ^ 奥 2019b, p. 276.
  23. ^ 奥 2019c, pp. 176–177.
  24. ^ 奥 2019a, p. 275.
  25. ^ 亀田 2010, pp. 106–107.
  26. ^ a b c 亀田 2010, p. 106.
  27. ^ 佐原 2008, p. 122.
  28. ^ 柴, 山崎編著 2019, pp. 77–81.
  29. ^ FAMA編 1994, p. 5.
  30. ^ FAMA編 1994, pp. 86–88.
  31. ^ a b c 齋藤 2001, pp. 113–114.
  32. ^ a b 中澤 2013, p. 16.
  33. ^ 松永 2019, pp. 252–253.
  34. ^ 平野 2019, pp. 281–283.
  35. ^ a b 奥 2019b, pp. 278–279.
  36. ^ a b 長 2022, pp. 77–79.
  37. ^ a b c 長 2022, p. 77.
  38. ^ 山崎 2019b, pp. 268–269.
  39. ^ a b c d 三谷 2013a, p. 20.
  40. ^ 山崎 2019b, p. 266.
  41. ^ 山崎 2019a, p. 19.
  42. ^ 長島 2019, p. 215.
  43. ^ a b ヌシッチ 2024, pp. 379, 397.
  44. ^ 百瀬 2019, pp. 262–263.
  45. ^ 鈴木 2019, pp. 248–249.
  46. ^ 鈴木 2019, pp. 248–250.
  47. ^ a b 三谷 2013a, pp. 29–30.
  48. ^ a b 奥 2019b, p. 279.
  49. ^ 栗原 2001, pp. 27–28.
  50. ^ 栗原 2001, pp. 27–29.
  51. ^ a b 栗原 2001, p. 30.
  52. ^ 栗原 2001, pp. 30–31.
  53. ^ 江川 2019, p. 50.
  54. ^ a b 栗原 2001, pp. 32–33.
  55. ^ 栗原 2006, p. 39.
  56. ^ Hawkesworth, Celia (January 2000). Voices in the Shadows: Women and Verbal Art in Serbia and Bosnia; Pages 250 & 251. ISBN 9789639116627. https://books.google.com/books?id=rGSqi3EKxL4C&pg=PA250 2024年9月3日閲覧。 
  57. ^ O Umihani Čuvidini”. Osnovna škola "Umihana Čuvidina" Sarajevo. 2024年9月3日閲覧。
  58. ^ a b c 栗原 2001, pp. 33–34.
  59. ^ 上畑 2019, pp. 303–304.
  60. ^ 上畑 2019, pp. 302–304.
  61. ^ 奥 2019a, pp. 274–275.
  62. ^ 奥 2019b, p. 277.
  63. ^ アンドリッチ 1997, pp. 261–262.
  64. ^ 奥 2019c, pp. 119–122.
  65. ^ 奥 2019c, pp. 122–123.
  66. ^ セリモヴィッチ 2013, pp. 448–450.
  67. ^ 三谷 2013a, p. 28.
  68. ^ 三谷 2013a, pp. 26–27.
  69. ^ 三谷 2013b, pp. 40–41.
  70. ^ 三谷 2013a, pp. 28–29.
  71. ^ 三谷 2013a, p. 29.
  72. ^ 三谷 2013c, p. 45.
  73. ^ ハリロビッチ編 2015, pp. 4–6, 36.
  74. ^ フィリポヴィッチ 1994.
  75. ^ 栗原, 田中編訳 1980, p. 257.
  76. ^ 米岡 2024, p. 101.
  77. ^ 米岡 2009, pp. 39, 46.
  78. ^ 米岡 2009, p. 39.
  79. ^ 米岡 2009, pp. 53–55.
  80. ^ 奥 2019c, pp. 174–175.
  81. ^ 奥 2019c, pp. 173–174.
  82. ^ a b 奥 2019c, p. 171.
  83. ^ 奥 2019c, p. 185.
  84. ^ a b 田中 2006, p. 73.
  85. ^ 奥 2019c.
  86. ^ マーニョ 2013, pp. 20–21.
  87. ^ マーニョ 2013, p. 115.
  88. ^ マーニョ 2013, p. 121.
  89. ^ マーニョ 2013, p. 117.
  90. ^ マーニョ 2013, pp. 120–121.
  91. ^ 奥 2019a, pp. 271–272.
  92. ^ a b 米岡 2009, p. 46.
  93. ^ 山崎 2019b, pp. 269–270.
  94. ^ a b サラエボにガジ・フスレブベグ図書館の新しい建物が開館-1537年に設立された図書館”. カレントアウェアネス-R (2014.1.21.). 2024年9月3日閲覧。
  95. ^ 江川 2020, p. 109.
  96. ^ a b 【世界の図書館から】 ガーズィ・フスレヴ・ベグ図書館(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)”. 東京大学附属図書館アジア研究図書館 (2019.2.13.). 2024年9月3日閲覧。
  97. ^ 江川 2020, p. 104.
  98. ^ 米岡 2024, p. 97.
  99. ^ a b 米岡 2024, p. 92.
  100. ^ a b ボスニア・ヘルツェゴビナの国立図書館が22年ぶりに開館”. カレントアウェアネス-R (2014.5.12.). 2024年9月3日閲覧。
  101. ^ 江川 2020, p. 103.
  102. ^ 奥 2019a, p. 278.
  103. ^ 江川 2020, pp. 104–105.

参考文献

  • イヴォ・アンドリッチ 著、田中一生, 山崎洋 訳『サラエボの鐘: 短編集』恒文社、1997年。 
  • 江川ひかり「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ研究案内」『明大アジア史論集』第20号、明治大学東洋史談話会、2020年11月、103-110頁、2024年9月3日閲覧 
  • 奥彩子「アイデンティティーの相克 : ボスニア・ムスリムによるアンドリッチ批判の系譜」『スラヴ学論集』第22巻、日本スラヴ学研究会、2019年、171-196頁、2024年9月3日閲覧 
  • 長有紀枝ボスニア・ヘルツェゴヴィナの平和構築再考 ―デイトン和平合意25年後の教訓―」『国際安全保障』第50巻第1号、国際安全保障学会、2022年、74-94頁、2024年9月3日閲覧 
  • 亀田真澄「イデオロギーの狭間における物語 : 旧ユーゴ1960年代のアニメーション作品分析」『れにくさ : 現代文芸論研究室論集』第2巻、現代文芸論研究室、2010年、105-122頁、2024年8月3日閲覧 
  • 栗原成郎, 田中一生 訳『ユーゴスラビアの民話 1』恒文社、1980年。 
  • 齋藤厚「「ボスニア語」の形成」『スラブ研究』第48巻、北海道大学スラブ研究センター、2001年、113-137頁、2024年8月3日閲覧 
  • 佐原徹哉『ボスニア内戦』有志舎、2008年。 
  • 柴宜弘, 佐原徹哉 編『バルカン学のフロンティア』彩流社〈叢書東欧〉、2006年。 
    • 栗原成郎『ボスニア・ムスリム叙事詩の英雄アリヤ・ジェルゼレズについて』。 
    • 田中一生『アンドリッチの「アリヤ・ジェルゼレズ」』。 
  • 柴宜弘, 山崎信一 編『ボスニア・ヘルツェゴヴィナを知るための60章』明石書店〈エリア・スタディーズ〉、2019年。 
    • 上畑史『伝統音楽セヴダリンカ――古(いにしえ)の古都の音風景』。 
    • 江川ひかり『オスマン帝国時代――異文化混淆を自文化とした緩やかな生活の営み』。 
    • 奥彩子『ボスニア・ヘルツェゴヴィナと文学①――中世文学から近代文学』。 
    • 奥彩子『ボスニア・ヘルツェゴヴィナと文学②――20世紀以降の文学』。 
    • 奥彩子『ヴィシェグラード――「ドリナの橋」とアンドリッチ』。 
    • 唐澤晃一『中世のボスニア――激動の時代』。 
    • 唐澤晃一『ステチャク』。 
    • 鈴木健太『移民・難民とディアスポラ――世界に広がるボスニア社会』。 
    • 長島大輔『宗教の概要』。 
    • 平野共余子『ボスニア映画――サラエヴォの銃弾からボスニア紛争まで』。 
    • 松永知恵子『『サラエボの花』たち――ボスニア・ヘルツェゴヴィナの心理社会的支援について』。 
    • 村上亮『ハプスブルク帝国の統治――占領から併合へ』。 
    • 百瀬亮司『ナショナリズムに抗する人々――ボスニアの市民運動の成果と課題』。 
    • 山崎信一『ユーゴスラヴィアの「縮図」ボスニア』。 
    • 山崎信一『言語――三つの言語? 一つの言語?』。 
  • 鈴木董オスマン語をめぐって : 多言語帝国としてのオスマン帝国と言語的共存」『史学』第63巻第3号、三田史学会、1994年3月、81-89頁、 ISSN 038693342024年9月3日閲覧 
  • 『東欧・中央ユーラシアの近代とネイションⅠ』スラブ研究センター〈スラブ研究センター研究報告シリーズ No.80〉、2001年。 
    • 栗原成郎『第3章 ボスニア・ムスリム民衆叙事詩の成立とムスリム民族意識の形成』。 
  • メシャ・セリモヴィッチ 著、三谷惠子 訳『修道師と死』松籟社、2013年。 (原書 Meša Selimović (1966), Derviš i smrt 
  • 中東現代文学研究会(編)「中東現代文学選 2012」、プロジェクト・ワタン、2013年3月、2024年6月11日閲覧 
    • 三谷惠子『ジェヴァド・カラハサン「1993年の手紙」解説』。 
    • 三谷惠子『ミリェンコ・イェルゴヴィッチ「盗み」解説』。 
  • 中澤拓哉「〈モンテネグロ語〉の境界 : ユーゴスラヴィア解体以降の言語イデオロギーにおける「言語」の再編(2007- 2011)」『境界研究』第4巻、北海道大学スラブ研究センター、2013年11月、15-30頁、2024年9月3日閲覧 
  • ブラニスラヴ・ヌシッチ 著、奥彩子, 田中一生 訳『不審人物 故人 自叙伝』幻戯書房〈ルリユール叢書〉、2024年。 
  • ヤスミンコ・ハリロビッチ 編、角田光代 訳『ぼくたちは戦場で育った サラエヴォ1992-1995』集英社インターナショナル、2015年。 (原書 Jasminko Halilovic, ed., War Childhood: Sarajevo 1992-1995. 
  • FAMA英語版 編、P3 art and environment英語版 訳『サラエボ旅行案内 史上初の戦場都市ガイド』三修社、1994年。 (原書 Sarajevo Survival Guide, (1993) 
  • ズラータ・フィリポヴィッチ 著、相原真理子 訳『ズラータの日記 サラエボからのメッセージ』二見書房、1994年。 (原書 Zlata Filipović (1993), Zlata's Diary 
  • アレッサンドロ・マルツォ・マーニョイタリア語版 著、清水由貴子 訳『そのとき、本が生まれた』柏書房、2013年。 (原書 Alessandro Marzo Magno (2012), L'alba dei libri. Quando Venezia ha fatto leggere il mondo 
  • 三谷惠子境界を描く ―ボスニア出身作家たちの作品に見るボスニア像―」『ロシア・東欧研究』第42号、ロシア・東欧学会、2013年、17-31頁、2024年8月3日閲覧 
  • 三谷惠子「ウクライナ─ボスニア : 国が消えて国境が残る物語」『文化交流研究 : 東京大学文学部次世代人文学開発センター研究紀要』第42号、東京大学文学部次世代人文学開発センター、2015年、1-7頁、 ISSN 134789312024年9月3日閲覧 
  • 米岡大輔「ボスニア系ムスリム知識人による「民族」論 ハプスブルク帝国統治期を中心に」『西洋史学』第235巻、日本西洋史学会、2009年、39-57頁、2024年9月3日閲覧 
  • 米岡大輔「分断された国家の歴史学のゆくえ ―ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史学史概観―」『社会科学研究』第44巻第2号、日本西洋史学会、2024年3月、39-61頁、 ISSN 028514072024年9月3日閲覧 

関連文献

  • イボ・アンドリッチ 著、山崎洋, 山崎佳代子, 田中一生 訳『イェレナ、いない女 他十三篇』幻戯書房〈ルリユール叢書〉、2020年。 
  • リチャード・オヴェンデン英語版 著、五十嵐加奈子 訳『攻撃される知識の歴史英語版』柏書房、2022年。 (原書 Richard Ovenden (2020), Burning the Books 
  • 奥彩子, 西成彦, 沼野充義 編『東欧の想像力 現代東欧文学ガイド』松籟社、2016年。 
  • フアン・ゴイティローソ 著、山道佳子 訳『サラエヴォ・ノート』みすず書房、1994年。 (原書 Juan Goytisolo (1993), Cuaderno de Sarajevo 
  • 柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史 新版』岩波書店〈岩波新書〉、2021年。 
  • サーシャ・スタニシチ 著、浅井晶子 訳『兵士はどうやってグラモフォンを修理するか』白水社〈エクス・リブリス〉、2011年。 (原書 Saša Stanišić (2006), Wie der Soldat das Grammofon repariert 
  • スーザン・ソンタグ 著、富山太佳夫 訳『サラエボで、ゴドーを待ちながら』みすず書房、2012年。 (原書 Susan Sontag (2001), Where the Stress Falls 
  • ペタル二世ペトロビッチ=ニェゴシュ 著、田中一生, 山崎洋 訳『山の花環 小宇宙の光』幻戯書房〈ルリユール叢書〉、2020年。 
  • 三谷惠子「言語の〈自立〉と社会 : ユーゴスラヴィア(SFRJ)崩壊から10年を経て」『Dynamis : ことばと文化』第6巻、京都大学大学院人間・環境学研究科文化環境言語基礎論講座、2002年9月、6-28頁、2024年8月3日閲覧 

関連項目

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  ボスニア・ヘルツェゴビナ文学のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ボスニア・ヘルツェゴビナ文学」の関連用語

ボスニア・ヘルツェゴビナ文学のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ボスニア・ヘルツェゴビナ文学のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのボスニア・ヘルツェゴビナ文学 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS