ボスニア公時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/14 08:06 UTC 版)
1131年にラースローはベーラ盲目王と妻のヘレナの次男として生まれる。ラースローが誕生してから数か月後、ヘレナは彼とラースローの兄ゲーザを連れてアラドに行き、ベーラの失明に関与した疑いのある貴族たちの殺害を命令した。 1136年にベーラ2世の軍隊はボスニアに侵入し、ボスニアでの軍事行動を記念してネレトヴァ川の支流である小川にちなんだ「ラマの王」の称号を使用した。翌1137年にベーラ2世はエステルゴムで行われた貴族、聖職者の集会でラースローをボスニアの公に任命した。しかし、ラースローが私的にボスニアを統治することはなく、実際の領地の統治は任命・選出された公認のバン(総督)によって監督されていた。 1141年2月13日にベーラ2世は没し、ラースローの兄であるゲーザがハンガリー王位を継承する。『彩飾年代記(英語版)』では、ゲーザが「弟たちに公領の収入を与えた」ことが記されているが、ラースローとイシュトヴァーンが収入を与えられた時期は明らかにされていない。歴史学者のFerenc MakkとGyula Kristóは、ゲーザが自分の息子であるイシュトヴァーンを後継者に指名した1152年頃に起きた出来事だと主張している。1156年/57年にラースローの弟イシュトヴァーンはゲーザに対する陰謀を企てるが、失敗に終わる。イシュトヴァーンは最初神聖ローマ帝国に保護を求めたが、その後ビザンツ帝国に亡命した。ラースローもイシュトヴァーンに続き、1160年頃にコンスタンティノープルに亡命する。
※この「ボスニア公時代」の解説は、「ラースロー2世」の解説の一部です。
「ボスニア公時代」を含む「ラースロー2世」の記事については、「ラースロー2世」の概要を参照ください。
- ボスニア公時代のページへのリンク