ボスニア併合と行政区画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/11 07:34 UTC 版)
「オスマン帝国のボスニア・ヘルツェゴビナ征服」の記事における「ボスニア併合と行政区画」の解説
1463年、オスマン帝国はボスニア王スティエパン・トマシェヴィチを処刑し、王国の併合を完了した。直後にハンガリー王国がヤイツェ要塞を包囲し、奪取した(ヤイツェ包囲戦)。この成功は、ハンガリー王マーチャーシュ1世コルヴィヌスの宮廷ではハンガリー宗主権下でのボスニア王国復興として讃えられ、ヤイツェにバンが設置された。 同年、ボサンコ・クライシテがボスニア・サンジャクに改組され、イーサ=ベグ・イサコヴィチが初代サンジャクベイとなった。 1463年の王国滅亡後、マフムト・パシャがヘルツェゴビナにも侵攻し、ブラガイを包囲した。その後スティエパン・ヴクチッチ・コサチャはブラガイ以北の全領土をオスマン帝国に割譲して停戦を結んだ。 ボスニアにおけるオスマン領サンジャクは拡大を続けた。1470年にはヘルツェゴビナ・サンジャクが成立し、ボスニア・サンジャクと同様ルメリ・ベイレルベイスィの下位に置かれた。1480年にはズヴォルニク・サンジャクが設置されたが、こちらはブディン・ベイレルベイスィに従属するものとされた。 王国滅亡後もボスニアの一部の要塞はオスマン帝国への抵抗を続けた。最後のヘルツェゴビナに残存していた要塞が陥落したのは1481年である。コサチャ家はオスマン帝国に従属する聖サヴァ公として存続していたが、1482年に追放された。 メフメト2世没後の1481年、ハンガリー王マーチャーシュ1世コルヴィヌスが再度ボスニアに侵攻し、ヴルフボスナ(サライェヴォ)まで達した。しかしこの時の獲得領は一年のうちに失われた。 1530年代までは、ハンガリー王国はサヴァ川南岸の要塞を保持していた。ヤイツェも長らくハンガリーが支配していたが、1527年にオスマン帝国の手に落ちた。ウソラではベリスラヴィチ・グラバルスキ家が力を持っていたが、1530年代にここも屈した。 ボスニア南西部は1537年にクリス・サンジャクの一部となり、ルメリア・エヤレトの下に置かれた。
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