ボスニア危機
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詳細は「ボスニア・ヘルツェゴビナ併合」を参照 1908年、「統一と進歩委員会」が中心となって、専制的なオスマン皇帝アブデュルハミト2世に対する青年トルコ人革命がおこった。1909年にはアブデュルハミト2世は廃位され、メフメト5世が即位したが、彼は憲法に忠実である反面、前帝と比べると政治に無頓着な君主であった。さまざまな改革がおこなわれたが、帝国内では社会不安や混乱が続いた。 青年トルコ人革命後の憲法改正で、地方の州に大幅な自治が認められることになった。オーストリア・ハンガリーは、ベルリン会議以来ボスニア・ヘルツェゴビナを管理下においていたが、自治が認められれば二重帝国の支配に批判的なセルビア人がボスニアの州議会を掌握し、自国の権限が脅かされると危惧した。そこでオーストリアは、ボスニア・ヘルツェゴビナの保護が同地域に経済的な安定をもたらすとの主張に基づいて、同地域を併合した。 併合は「ボスニア危機(併合危機)」と呼ばれる外交紛争を招いたが、最終的にオーストリア・ハンガリーがオスマン側に補償金を支払うことを約束し、ボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリアに併合された。このとき、オーストリアはロシアに対して、ロシア軍艦のダーダネルス海峡通航権が認められるのを支持すると約束し、ロシアの支持を取り付けた。そこでロシアはオスマン帝国にダーダネルス海峡通航権を請求したが、イギリスとフランスの反対にあって頓挫したため、結局オーストリアの約束はロシアに何の益ももたらさなかった。 併合がオスマン帝国に認められた後も、セルビアはオーストリア・ハンガリーに頑強に反対した。セルビアはロシアに支援を求めたが、ロシアは日露戦争で敗北を重ねて疲弊していたので、これに応ずることができなかった。ドイツはこの情勢を見てオーストリア・ハンガリーを支持し、イギリスとフランスは無関心であった。孤立したセルビアは、やむをえずボスニア・ヘルツェゴビナの併合反対を取り下げた。
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ボスニア危機
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「共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ」の記事における「ボスニア危機」の解説
ボスニア・ヘルツェゴビナ併合後の情勢は、交渉した両外相の思惑通りには進まなかった。セルビア王国の反発は予期した通りであった一方で、イギリスとフランスがロシア艦隊の両海峡通過を認めなかったためである。これによってオーストリア=ハンガリー帝国は外交的屈辱を味わい、対セルビア王国宣戦準備を始める。ボスニア危機と呼ばれる一連の緊張状態は、こうして始まった。 その後、見返りを得られなかったロシア帝国でセルビア王国に同情的な感情が高まってロシア帝国が併合反対派に回り、それでもオーストリア=ハンガリー帝国は軍備を進めたため緊張は深刻化したが、セルビア王国侵攻による不利益が大きいと考えられた結果、翌1909年2月、すでに軍の動員が始まっていた中でエーレンタールは宣戦の取りやめを決定した。 さらに3月にはドイツ帝国がロシア帝国に対し最後通牒という形で圧力をかけ、ロシア帝国にセルビア王国を見放させた。 これによって3月30日、遂にセルビア王国が折れてボスニア危機は終結した。
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