ボスニア・ヘルツェゴビナの併合
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「フランツ・ヨーゼフ1世」の記事における「ボスニア・ヘルツェゴビナの併合」の解説
1908年7月、オスマン帝国が青年トルコ革命に伴って立憲政治を再開した。ボスニアの占領状態が国際的に無効化されることを危惧して、フランツ・ヨーゼフは1908年10月にボスニアとヘルツェゴヴィナの併合に踏み切った。この両地域は、1878年のベルリン会議において、「当地域におけるスルタンの主権を侵害することはない」と1879年のボスニア占領協定に明記した上で、オーストリアが統治の委任を受けたものである。オスマン帝国の主権は排除されなかったが、実際にはオスマン帝国の主権を骨抜きにする統治政策が実施されていた。 なお、この併合宣言は同盟国であったドイツ帝国やイタリア王国にも通知せずに行われたものであり、ヨーロッパ中を騒然とさせた。ヨーロッパ戦争を引き起こす恐れがあったが、ひとまずドイツによって戦争は回避された。ドイツがロシアに併合を受諾すべしと強硬な態度に出て、ロシアが外交的に譲歩することによって緊張状態が解決されたのである。 フランツ・ヨーゼフには、世襲した領土をそのまま次代に譲渡したいとの思いがあったので、ボスニア・ヘルツェゴビナが多少なりとも失われたイタリア半島の領土の代わりになるとの考えもあった。しかし、この併合は汎スラヴ主義の先頭に立つセルビア王国との関係を悪化させて帝国内のスラヴ系民族を刺激し、さらなる民族問題の複雑化につながった。土地所有者を含む多くのイスラーム教徒のオスマン帝国への移住が急増したことも、帝国のボスニア統治にとって深刻な問題であった。
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ボスニア・ヘルツェゴビナの併合
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「フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)」の記事における「ボスニア・ヘルツェゴビナの併合」の解説
1908年7月、オスマン帝国が青年トルコ革命に伴って立憲政治を再開した。ボスニアの占領状態が国際的に無効化されることを危惧して、フランツ・ヨーゼフは1908年10月にボスニアとヘルツェゴヴィナの併合に踏み切った。この両地域は、1878年のベルリン会議において、「当地域におけるスルタンの主権を侵害することはない」と1879年のボスニア占領協定に明記した上で、オーストリアが統治の委任を受けたものである。オスマン帝国の主権は排除されなかったが、実際にはオスマン帝国の主権を骨抜きにする統治政策が実施されていた。 なお、この併合宣言は同盟国であったドイツ帝国やイタリア王国にも通知せずに行われたものであり、ヨーロッパ中を騒然とさせた。ヨーロッパ戦争を引き起こす恐れがあったが、ひとまずドイツによって戦争は回避された。ドイツがロシアに併合を受諾すべしと強硬な態度に出て、ロシアが外交的に譲歩することによって緊張状態が解決されたのである。 フランツ・ヨーゼフには、世襲した領土をそのまま次代に譲渡したいとの思いがあったので、ボスニア・ヘルツェゴビナが多少なりとも失われたイタリア半島の領土の代わりになるとの考えもあった。しかし、この併合は汎スラヴ主義の先頭に立つセルビア王国との関係を悪化させて帝国内のスラヴ系民族を刺激し、さらなる民族問題の複雑化につながった。土地所有者を含む多くのイスラーム教徒のオスマン帝国への移住が急増したことも、帝国のボスニア統治にとって深刻な問題であった。
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