ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/26 16:14 UTC 版)
「フォチャ (ボスニア・ヘルツェゴビナ)」の記事における「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争とその後」の解説
詳細は「フォチャの虐殺」を参照 1992年、フォチャはセルビア人の武装勢力の支配下に置かれた。この地域に居住していたすべてのボシュニャク人が民族浄化の対象となった。フォチャ出身の2,704人は紛争中に死亡したか行方不明となっている。この死者・行方不明者の多数を占めるのはボシュニャク人である。フォチャはまた、強姦収容所の設置場所となった。パルチザン会館はセルビア人勢力によって収容所として利用され、数百人のボシュニャク人女性が組織的に強姦された。 セルビア人勢力によるボスニア東部での民族浄化に関して、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷の判決では以下のように言及されている: はじめ、セルビア人武装勢力は非セルビア人の市民を東部ボスニアで攻撃した。町や村はひとたびセルビア人の手に落ちると、セルビア人勢力 - 軍や警察、準軍事組織、そして時にはセルビア人の村人までもが - おなじパターンに従って行動した。ボシュニャク人の家や住宅は組織的に破壊されるか放火され、ボシュニャク人の市民は追い込まれるか捕らえられ、時に殴打され、殺害された。男性と女性は分離され、男性らの多くは強制収容所に送られた。女性らは各地の抑留地にとどめ置かれ、極めて劣悪な環境の中での生活を強いられ、繰り返し強姦されるなどの虐待を受けた。セルビア人の兵士や警官はこれらの抑留地を訪れ、一人あるいは複数の女性を選んで連れ出し、強姦した 旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷では、セルビア人勢力の指導者であったスルプスカ共和国の2代目の大統領ビリャナ・プラヴシッチとの司法取引が行われ、このときプラヴシッチは罪を認め、紛争中にフォチャで組織的な大量強姦が行われた事実を認めた。セルビア人勢力の兵士ノヴィスラヴ・ジャイッチ(Novislav Djajic)の法廷では、1992年6月にフォチャ地域でジェノサイドが行われたことが認定された。 1992年4月22日、セルビア人勢力はアラジャ・モスク(Aladža džamija)を爆破した。さらに、16世紀から17世紀にかけて建てられたほかの8つのモスクも破壊した。 1995年にデイトン合意が調印され、セルビア人勢力に取り囲まれて孤立地帯となっていたゴラジュデ(Goražde)と、ボシュニャク人やクロアチア人を主体とする構成体ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の本体との間に回廊が設置された(ボスニア=ポドリニェ県)。これに伴って、以前のフォチャ自治体のうち、北部の一部地域はフォチャから切り離され、フォチャ=ウスティコリナ(Foča-Ustikolina)となった。 フォチャは「セルビア人の地」を意味するスルビニェ(Србиње / Srbinje)へと改称された。「Srbi」は「セルビア人」、「-nje」はスラヴ語で場所を表す接尾語である。2004年、ボスニア・ヘルツェゴビナの憲法裁判所は、この名前は憲法違反であると裁定し、その呼称をフォチャに戻した。スルプスカ共和国の議会はこれにしたがって呼称を戻す法案を採択した。
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