大量強姦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/22 03:50 UTC 版)
ボシュニャク人の女性らは複数の抑留施設に抑留され、極めて劣悪で非衛生的な環境の元におかれた。女性らは繰り返し強姦される等の虐待を受けた。セルビア人の軍人や警察官はこの抑留施設を訪れ、1人または複数の女性を選び出し、強姦した。これらの行為はすべて、当局の知るところであり、スルプスカ共和国の当局はこれらの行為が行われていることを認識し、各地の警察をはじめとして時にこれらの行為に直接関与した。フォチャの警察軍の局長ドラガン・ガゴヴィッチ(Dragan Gagović)は、これらの抑留施設を訪れ、女性を強姦した者の一人として人物特定されている。フォチャには複数の強姦収容所があり、その中のひとつは「カラマン(Karaman)の家」と呼ばれていた。女性らはここに抑留されている間、繰り返し強姦されていた。「カラマンの家」に抑留されていた女性らの中には、15歳に満たない少女もいた 。 ボシュニャク人女性に対する強姦は、セルビア人にとって、ボシュニャク人に対する勝利と優越性を体現するものとなるため、ボシュニャク人女性は特に強姦の標的となった。たとえば、女性や少女らは、ドラゴリュブ・クナラツ(ボスニア語版)やその配下の人間によって組織的に、兵士の基地となっているオスマナ・ジキッチ(Osmana Đikić)通り16番地の家に連行される。クナラツは女性や少女らが一般市民であることを知っているが、ここでは女性や少女らはクナラツ自身やその配下の者たちによって強姦される。強姦された少女の中には、14歳の者も複数いた。セルビア人兵士らは、通常、ボシュニャク人に対してまったく気に留めることはなく、特にボシュニャク人女性に対して配慮がなされることはなかった。セルビア人兵士らは多くのボシュニャク人(ムスリム)の少女を抑留施設から連れ出し、自身やその配下の兵士らが強姦するために、一定期間留めおかれた。 また別の例では、ICTYに訴追されたラドミル・コヴァチュ(ボスニア語版)という人物がいる。コヴァチュの住居に拘束されていた4人の少女は、コヴァチュが少女らのうち3人を繰り返し強姦したと訴え、もってボシュニャク人の市民に対する虐待を継続的に行い続けていたとした。コヴァチュはまた友人を住居に招き、少女らを強姦させることもあった。コヴァチュはまた、この少女らの3人を売った。少女が売られるに先立って、コヴァチュは少女のうち2人を、あるセルビア人兵士に貸し与えた。この兵士は少女らを3週間以上にわたって虐待し、その後少女らはふたたびコヴァチュの元へと送り返された。少女らはその後、別のコヴァチュの知人らにそれぞれ売られた。
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