ベルギー軍とアメリカ軍の介入による鎮圧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/05 07:04 UTC 版)
「コンゴ動乱」の記事における「ベルギー軍とアメリカ軍の介入による鎮圧」の解説
1964年8月末からシンバ反政府勢力は後退を開始した。アルベールヴィルとリサラは8月下旬と9月上旬に国民軍が奪還した。モブツと手を組んだチョンベはシンバを嫌う、かつてはカタンガの分離主義活動に貢献した元傭兵連中を呼び戻した。マイク・ホアー(通称マッド・マイク)が指揮し、中部アフリカや南部アフリカ出身の白人で編成された傭兵部隊は第5コマンドー部隊の名で知られている。第5コマンドー部隊は国民軍の陣頭指揮を担当したが、広範囲に及ぶ許可されていない殺害に拷問、略奪行為、反乱軍から奪還した地域における大量強姦を行っていたことから悪名高かった。ホアーですら記者会見の中で、部下について「ゾッとするような凶悪犯」と言及したほどであった。その他、傭兵部隊にはボブ・ディナールが率いる第6コマンドー部隊、ジャン・シュラムが率いる第10コマンドー部隊などがあった。これらの傭兵部隊はCIAからも物質的援助を受けていた。 1964年11月には敗北を恐れたシンバ反政府勢力が支配地域の白人住民を捕らえてスタンリーヴィルに連行した。国民軍との取引材料としてスタンリーヴィルの中心部にあるヴィクトリアホテルに白人の人質が集められた。人質を解放するためにベルギーのパラシュート部隊とアメリカの輸送機のコンゴへの投入が決定した。11月24日にはドラゴン・ルージュ作戦の一環として、ベルギーのパラシュート部隊がスタンリーヴィルに上陸し、人質は即座に救出された。合わせて約70人の人質と約1,000人のコンゴの民間人が殺害されたが、大半は避難に成功した。ベルギー軍は人質を解放する命令のみを受けていたが、シンバ反政府勢力はこの作戦の前に町の外に逃亡してしまい、東部の暴動は一段落を迎えた。パラシュート部隊と民間人はその後にベルギーに帰国した。介入の余波として、新植民地主義に基づく行為であるとしてベルギーそのものが公的に非難された。 シンバ反乱軍勢力の抵抗は特に東部の南キヴ州で激しく、ローラン=デジレ・カビラが毛沢東主義を掲げて1980年代までこの地の反乱を主導した。
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