大量抵抗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 22:33 UTC 版)
「プリンスエドワード郡 (バージニア州)」の記事における「大量抵抗」の解説
1956年、バージニア州議会は大量抵抗を実行に移す一連の法(スタンリー・プラン)を成立させた。これはバージニア州知事と州選出アメリカ合衆国上院議員を歴任したハリー・F・バードが指導するバード機構によって推進された政策であり、「ブラウン対教育委員会裁判」の最高裁判所判決に従うことを避けるものだった。 新しい大量抵抗法の1つで、生徒が選択肢として私立学校に入学できるように「授業料補助」が与えられるプログラムを作った。人種統合を強制されたことへの反応として、これは全員が白人生徒の学校を州が支持することを意味した。新しく造られた学校は「人種分離アカデミー」と呼ばれるようになった。 「ブラウン対教育委員会裁判」の最高裁判所判決およびバージニア州法変更の結果として、1959年、プリンスエドワード郡郡政委員会は郡教育委員会に対する予算割り当てを拒否し、公立学校を人種統合するのではなく、実質的に全て閉鎖した。プリンスエドワード郡公共教育学区は5年間閉鎖されたままだった。国内でもこのような極端な手段に訴えた郡はプリンスエドワード郡のみだった。 プリンスエドワード郡の公立学校に行くことが妨げられている間に、プリンスエドワード財団が創設された。それは郡内の白人の子供達のみを教育する私立学校を設立した。これらの学校は州からの教育費援助と郡からの税額控除に支えられた。これらは集合的にプリンスエドワード・アカデミーと呼ばれ、バージニアの「人種分離アカデミー」の1つになった。プリンスエドワード・アカデミーは事実上教育学区として運営され、郡全体にある多くの施設で幼稚園生から12年生を入学させた。 1959年から1964年、郡内の黒人生徒は他所の学校に行くか、集合的な教育無しで済ますしかなかった。近くの町で親戚と共に住みながら教育を受けるか、教会の地下室に作られた間に合わせの学校で教育を受けた者もいた。ソサイエティ・オブ・フレンドのような団体が集めた資金で、他州で教育を受けた者もいた。最後の学校年度(1963年-1964年)、全米黒人地位向上協会が後援したプリンスエドワード自由学校が、家を離れて他郡で公立学校に行けない黒人の若者を教育することで、歪んだ状態を幾らか改善した。 1963年、連邦裁判所は公立学校を開かれたものにする命令を出した。プリンスエドワード郡はアメリカ合衆国最高裁判所に控訴した。1964年5月、最高裁判所が「グリフィン対プリンスエドワード郡教育委員会事件」で出した判決は、9対0という全会一致の結論であり、プリンスエドワード郡の行動はアメリカ合衆国憲法修正第14条の平等保護条項に違背しているというものだった。郡も州も、告発と投獄という危険を冒すよりも諦める方を選び、バージニアの大量抵抗の時代が終わった。 グリフィス事件判決後の夏、ニューヨーク市立大学クイーンズ校の学生達が、その「自由の夏」プログラムで、南部のプリンスエドワード郡を訪れ、教育機会を否定されてきたアフリカ系アメリカ人の多くの子供達の教師になった。これらボランティアに教えられたサマースクールは「オペレーション・キャッチ・アップ」と呼ばれ、秋に再開される学校に生徒達が備えられることを目指した。多くの生徒は、地元の教会を校舎に使い、郡内著名アフリカ系アメリカ人の家で夏を過ごした。このプログラムに参加した生徒は、モートン博物館の助力で、2009年10月に再会を果たした。 しかし、プリンスエドワード郡がとった行動の結果として、5年間教育を全くあるいは一部受けられなかった生徒がいた。この集団はプリンスエドワード郡の「失われた世代」と呼ばれてきた。
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