大量殺害のための施設(ガス室)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 05:24 UTC 版)
「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」の記事における「大量殺害のための施設(ガス室)」の解説
ドイツ政府が推し進めた人種的な抑圧にも通じる「東部ヨーロッパ地域の植民計画」は初期段階において占領したポーランド地域のドイツ化を目的とした。当時のポーランドは農業後進国であり、入植したドイツ人による農業生産の機械化で数百万人の余剰労働者が生まれると試算したドイツ政府は、そこに住むポーランド人やユダヤ人などの資産(農地、工場、住宅など)を接収(時には非常に安い価格で買い上げ)するとともに、強制移住させることを決定する。1942年1月には、同計画について関係機関間における認識の共有化を図り、より強力に推し進めるための「ヴァンゼー会議」が開かれた。 しかし、戦況悪化により移送や移送先確保が難しいなど計画が行き詰まると、「特別措置14f13」に准じた「大量殺害」に関する研究の意義が増し、各強制収容所でもなされるようになったと考えられる。ダッハウ強制収容所の排気ガスを使った一酸化炭素による中毒死の研究「ガス車」は、事実であれば、一例と言える。 アウシュヴィッツでは、日々送られてくる被収容者の効率的殺害の手段として「ガス室」を研究し、実際に用いたとされる。最初のガス施設(クレマトリウム1)は1941年頃に第一強制収容所に作られ、実験をかねてまず約800人のソ連兵捕虜・ポーランド人が送られた。後に第二強制収容所に4つのガス施設(クレマトリウム2 - 5)が1943年3月 - 6月にかけて、さらに農家を改造した2つのガス施設(赤い家、白い家)の計7施設が作られたとされる(第一強制収容所のガス室は、後に強制収容所管理のための施設に改造したとされる)。使用したガスは「チクロンB(防疫施設で伝染病を媒介するノミやシラミの退治にも使用)」で、効率良く処刑を行うための研究班を配し「32分で800名処刑可能であった」とされる。死体は施設に備えられた焼却炉や焼却壕などで処分され、この作業にはゾンダーコマンドがあたった。死者の骨は砕かれてビスチュラ河に捨てられ、現在では慰霊碑が立てられている。 これらの施設は、1944年10月に起きたゾンダーコマンドの反抗による破壊(クレマトリウム4)、ソ連軍接近を察知したSSによる破壊で、現在当時のままの形をとどめているものはない。オシフィエンチム博物館で閲覧できるクレマトリウム1は復元されたものである。
※この「大量殺害のための施設(ガス室)」の解説は、「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」の解説の一部です。
「大量殺害のための施設(ガス室)」を含む「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」の記事については、「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」の概要を参照ください。
- 大量殺害のための施設のページへのリンク