大量湧水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 06:09 UTC 版)
丹那盆地の地質構造から、トンネル掘削は大量の湧水との戦いだった。トンネルの先端が断層や荒砂層に達した際には、トンネル全体が水であふれるような大量の湧水事故も発生した。湧水対策としては、多数の水抜き坑を掘って地下水を抜いてしまう方法がとられた。水抜き坑の全長は本トンネルの2倍の15キロメートルに達し、排水量は6億立方メートル(箱根芦ノ湖の貯水量の3倍とされる)に達した。 トンネルの真上に当たる丹那盆地は、工事の進捗につれて地下水が抜け水不足となり、灌漑用水が確保できず深刻な飢饉になった。丹那盆地では元来、稲作を主な産業とし、清水を利用したワサビ栽培もおこない、副業として酪農を行っていた。しかし水源不足により農作物が枯れ農地が荒れる被害が出て、鉄道省では対策として水道の敷設や貯水池の新設などを実施した。それでも十分な効果が上がらなかったため、1932年(昭和7年)になり農民らは県知事に訴え、知事の指示で耕地課農林主事であった柏木八郎左衛門が対策に乗り出して鉄道当局と交渉し、1933年(昭和8年)8月に見舞金117万5,000円が交付されることになった。 現在でも、完成した丹那トンネルからは大量の地下水が抜け続けており、かつて存在した豊富な湧水は丹那盆地から失われた。例えば、湿田が乾田となり、底なし田の跡が宅地となり、7か所あったワサビ沢が消失している。こうした関係で、被害対策に尽力した柏木の提唱もあり、トンネル工事以前には副業に過ぎなかった酪農が、丹那盆地における主要な産業となることになった。
※この「大量湧水」の解説は、「丹那トンネル」の解説の一部です。
「大量湧水」を含む「丹那トンネル」の記事については、「丹那トンネル」の概要を参照ください。
- 大量湧水のページへのリンク